『イエナの悲劇 : カント、ゲーテ、シラーとフィヒテをめぐるドイツ哲学の旅』石崎宏平(丸善)
「フィヒテの旅路」
一九世紀末から二〇世紀の初めてにかけてのドイツは、人々の才能が沸き上がるような異例な時期だった。ゲーテがおり、シラーがいるだけではない。カントもまだ生きているし、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルとドイツ観念論の土台を構築する人物が輩出する。
そしてその周囲を、ヘーゲルにも強い影響を与えたヘルダーリンや、ノヴァーリスやシュレーゲル兄弟などのドイツロマン派の人々が取り囲む。そしてこの時期はアレントが描いたラーヘルだけでなく、ドイツでフランスのような女性のサロンが登場した稀有な時期でもある。このサロンの伝統はその後はほとんど姿を消してしまうのだった。
本書『イエナの悲劇』は、この沸き立つように時期のイエナに集まった人々のうちで、とくにフィヒテに焦点を合わせながら、フィヒテを取り囲む人々と、フィヒテの「悲劇」を描こうとするものだ。もっとも悲劇といっても、ヘルダーリンと「ディオティマ」のような悲劇ではない。フィヒテが誤解と妬みとみずからの強情さのためにベルリン大学を追われるわれる事件にすぎない(そしてそれを最終的に決定したのはゲーテだった)。それでもこの当時の人々の異才と異能はありありと伝わってくる。
フィヒテ自身がその異才の人物だった。哲学を学んだこともないフィヒテが小遣いかせぎにカントの理論を教えるために、カントの哲学書を読み、その論理を学びとっていく。そのうちにフィヒテはカント哲学にのめり込み、みずからその論理を延長する書物『あらゆる啓示の批判の試み』を書き上げる。そしてカントにこの論文をみせる、カントは大いに称賛したのだった。そして旅費を無心するフィヒテにたいして、この論文を印刷させるという別の意味での援助を与えることにするのである。
カントの宗教論が待たれていた時期でもあって(p.47)、匿名で出版されたこの論文はカントの書いた論文だと誤解され、大評判になる。もちろんカントはこれを否定して筆者の名前を明かにするが、カントがこの論文を支持したこと自体が、フィヒテには大きな力になったのだった。
考えてみると、これはカントの論理がいかに新しいものであったかと同時に、その思考がいかにその時代において求められていたかを示すものである。まったく新しい枠組みを示された読者は、自分の力で考えるだけで、哲学以外の分野でも、カントの論理を適用して、新しい理論を構築することができるようになったのである。カントの直後から、カントの思考方法で、カントと違うことを考えるのが流行になる。そしてシェリングもヘーゲルも、カントはもう古いと言い出すことになるのだ。少なくとも最初は、カントの論理の力に依拠しながらである。
ともあれゲーテはこの評判を聞いて、ラインホルト(カント批判で有名な哲学教授だ)が去った後のイエナの哲学教授に、フィヒテを招くことになる。ゲーテは備忘録において、フィヒテがその著作の中で「高邁ではあるが、おそらく極めて不適切に、重要な道徳的対象並びに国家的対象について明らかにした」と評している(p.66)。シラーもまたラインホルトの後任のフィヒテについて「きっと非常によい掘り出し物でありましょう。しかも少なくとも精神の内容から言って、交代以上のものでありましょう」(ibid.)と評価したのだった。
イエナでフィヒテは、カントの哲学をすぐに「脱構築」し始める。そして自我を基礎とした知識学の体系を構築するようになる。すべての学の体系の根本に自我を措定するこの奇妙な弁証法の体系には、スピノザの汎神論を思わせるところがあった。ヘルダーリンがすぐに「彼の絶対的自我(それはスピノザの実体に等しい)は、あらゆる実在性を含んでいる。絶対的自我がすべてであり、それ以外は無である」(p.84)とその匂いをかぎつける。この汎神論的な要素と、フランス革命に対する強い支持のために、フィヒテはやがてイエナを去らざるをえなくなるのだ。
フィヒテはこうしてベルリンに移り、シュレーゲル兄弟と交わりを深め、ドイツロマン派の理論的な支柱のような役割をはたし始める。本書の後半は、このベルリン時代のフィヒテとロマン派の理論家たちとの交流、そしてこれらの理論家のパートナーだったり、親しい人々だったりする女性たちのサロンでの活動が描かれことになる。この時期は多数の人々が登場するだけに、少し描き込みに欠けるところがあるが、全体の見取り図としては、イエナの哲学の世界とベルリンのロマン派の世界を結ぶ役割をはたしたフィヒテを中心に描くというのは、適切な着眼点だったろうと思う。
【書誌情報】
■イエナの悲劇 : カント、ゲーテ、シラーとフィヒテをめぐるドイツ哲学の旅
■石崎宏平著
■丸善
■2001.5
■210p ; 19cm
■ISBN 4621060929
■定価 1900円