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『クレイジー・ライク・アメリカ―心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ/阿部宏美訳(紀伊國屋書店)

『クレイジー・ライク・アメリカ―心の病はいかに輸出されたか』

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「アメリカ型精神疾患の蔓延と克服の可能性」

 われわれはいわゆる精神疾患もしくは精神疾患のようにみえる状態にどのように向かい合っているだろうか。ここで問うているのは、自分や周囲の者がそれらに罹患した場合のことではない。一般的なイメージとしてわれわれが諸々の精神疾患をどのように受けとめているかということだ。


 たとえば、鬱々とした気分というとき、佐藤春夫の『田園の憂鬱』や井上靖の『憂愁平野』のような文学作品を想起するだろうか。それ以前に、「鬱(うつ)」ということばを「憂い(うれい)」と置き換えてみようとするだろうか。そうではあるまい。多くの人々がイメージするのは、仕事上のストレスや人間関係のストレスを乗り越えるための精神分析の手法や心理学的アプローチ、さらには、向精神薬や病院の精神科外来についてであろう。

 われわれの多くが鬱々とした気分を直接的に精神疾患ととらえる傾向を強めたのはそれほど昔のことではない。医学的にいうところのうつ病患者が飛躍的に増え始めた2000年代以降のことだ。うつ病にかんしていえば、複雑化する現代社会がこうした流行を招いたのであろうか。

 本書は「香港で大流行する拒食症」、「スリランカを襲った津波PTSD」、「変わりゆくザンジバルタンザニア)の統合失調症」、「メガマーケット化する日本のうつ病」の4章で構成されている。著者は、こうした精神疾患アメリカ合衆国によって概念づけられ、地域によっては、流行化現象を招き、その結果として、アメリカ的な対処方法こそが最善のものであると受けとめられている現状を批判的に考察する。

 問題はそれだけではない。たとえば、先の日本におけるうつ病についていえば、かつては青春時代特有の人生の悩みとされていたものまでもが、現代ではうつ病と疑われ、自力で乗り越えようとする以前に、医師の判断を仰ぐ状況が生じている。もちろん人生のたんなる悩みなどではなく、正真正銘うつ病である可能性もある。だが、日本におけるうつ病の流行がアメリカから大量輸入される特定の医薬品と連動しているとしたらどうだろうか。本書が指摘する問題にはこうした事案も含まれる。

 本書からさらに例をあげよう。タンザニアザンジバルにおける統合失調症への対応についてである。最新のアメリカ的な治療方法と比べれば、きわめて原始的ともいえる地域古来の対処方法のほうが病気の進行を遅らせる効果があることを、著者はフィールドワークをとおして実証する。それだけではない。ザンジバルにおいては、アメリカ的な方法は病気の進行を加速することが明らかにされる。この事例のように、たとえ統合失調症を直すことはできなくても、その進行を抑え、患者がそうでない人々と共に暮らしていけるならば、われわれは最先端医療のもと、これまでひたすら信奉してきたアメリカ的な治療方法をどのように受けとめればよいのだろうか。

 著者は患者の回復を願う精神科医やカウンセラーたちの努力を必ずしも否定しているわけではない。ここで述べられているような精神疾患は、そもそも各地域の宗教や文化と深い関係をもっている。したがって、地域社会とのかかわりの中で対処していくことが重要であると訴えているのだ。こうした違いを無視し、アメリカ的な考え方を押しつけようとする独善性こそが最大の問題なのである。

 アメリカ的生活様式が「ハリウッド帝国主義」の名のもとに、他地域を「コカ・コーラ植民地」にしたとはよくいわれることである。本書の副題にもあるように、「心の病」までもがその一翼を担いつつあることに著者は危惧の念を抱いている。そうした意味で、本書は、アメリカ的なものに今後どう向かい合えばよいのかを考えさせるだけでなく、読者に生き方そのものの決断を迫る書でもある。

 医療の問題を、広く複合的な領域の一部としてとらえようとする試みはすでに始まっている。いわゆる医療人文学(Medical Humanities)とよばれる立場がそれである。著者の人類学的アプローチもこの分野に含まれるものだ。今後、こうした角度からの研究が進むことで、医療分野に新たな可能性が開かれるだろう。皮肉なことに、アメリカが輸出する「心の病」を批判するのもアメリカ人ならば、医療人文学のような考え方を世界に先駆けて推進するのもアメリカ人を中心とする研究者たちなのだ。おそらく、こうした点がアメリカ合衆国の底力であると同時に、健全性なのかもしれない。


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