『ねにもつタイプ』岸本佐知子(筑摩書房)
「言葉にあまるもの」
「根に持つ」とは、すんだことをいつまでもうらみがましく忘れずにいることを言い、だから「根に持つタイプ」というのはあまり褒められた性質とはいえない。あとがきでは、著者自身がそういうタイプの人間というわけではない、とことわっているが、読みすすむうち、岸本佐知子というひとは、やはりタイトル通りの「ねにもつタイプ」であると確信した。
彼女が「ねにもつ」のは、おそらく他人からみれば、まったくとるに足りないようなできごと、きわめて個人的な、たぶん彼女にだけ知覚できる世界でおこった現象に対してである。それらをめぐる違和感やこだわりや心残りに、彼女は恐るべき想像力と記憶力とでもって固執し、忘れることがない。
そうやって、もろもろの腑に落ちなさ、どうもしっくりこない感じ、忘れられない気かがり、を検証してゆく彼女の思考回路に振りまわされた読者は、まるでSFのショートショートを読んだときのような、ふわふわと快い居心地のわるさと、ぞっとするようなおかしみにさらわれることになる。
幼い頃の大親友、大中小のみっつの「ニグ」とやらは、一見ただの汚れた毛布だが、彼女の話はなんでも聞いてくれたし、いろいろなことを教えてくれたし、空まで飛べるのである(「ニグのこと」)。
あるメールにこうある、「お含みおきください」。如才なく物事を処理する能力が欠落した人間には、何を「含みおく」のかがまったくわからない。と、ある映画のシーン、死んだ西太后の口に大きな玉が押し込まれる、という場面が浮かび、彼女の口のなかに詰まった「含みおく」べき玉もどんどん膨らんでゆく。耐えきれずそれを吐きだすが、「含みおく」ものが何なのかに気がついてみると、吐きだされて部屋のすみに転がった玉は豆粒ほどに縮んでいる(「西太后の玉」)。
どんな言葉を持ってしても、じゅうぶんに説明しきれない、なんだかよくわからない感じ、というものがある。既存の言葉にあてはめることのできない感覚に遭遇したとき、ひとは、それに似通ったものに置き換えて無理矢理納得するか、あるいは、なかったことにしてスルーしてしまいがちである。
彼女は、そのどちらをもしない。なんだかよくわからない感じをそのまま、頭のすみに温存させておく。そしておもむろに、その辞書の項目のようにぴたりと言いあてられないこと、言葉にあまるようなものを、あの手この手でじわじわと追いつめてゆく。
わからない言葉、知らない言葉に出会うと、大慌てで辞書を繰り、この感じ、どうやって表現しようか、というときにも、すぐに辞書にすがってしまう自分を省みた。彼女も、翻訳家という職業柄、辞書とは切っても切れない関係にいるはずなのに。
だから、翻訳者の岸本氏の仕事にも、非常に興味をおぼえた。と、本棚をみて、リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』(白水社)が、彼女の訳だったと気がついた。だいたい外国の小説は、気に入ったものを読み返すことしかしない私が、久しぶりに新刊で手にした翻訳物である。
彼女の、不思議に楽しい名文を生み出すことのできる才覚と、外国語を日本語に置き換えるという生業との相互関係に、なにやら納得のいく気がした……なんていう、とってつけたまとめも吹きとぶおもしろさなのである。