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『はじまりの物語-デザインの視線』松田行正(紀伊國屋書店)

はじまりの物語-デザインの視線

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「図説」文化史はどうしてこんなに面白い

ぼく自身、一時自分でつくって自分ではまってしまった、たとえばヴィジュアル・エッセーとでも名づけられる文化史エッセーの理想的な完成形を、気鋭のデザイナー、松田行正氏が前著『眼の冒険-デザインの道具箱』(紀伊國屋書店、2005)に引き続き、続行中という一冊である。

斬新な文化史的主張がもの凄い量のヴィジュアルに助けられて一段と説得力を増すというタイプの批評で、活字中心の冊子メディアがそろそろ本格的にデジタル化の大波に洗われだし、かつ文化の全面で「言語中心主義」の制度疲労を縫ってヴィジュアルな説得力が言われだしたタイミングで、松岡正剛杉浦康平『全宇宙誌』(1979)を突破口に、ヴィジュアル感覚、本そのものを内容に見合う形に「マッチング」させるデザイン感覚の本や雑誌が一杯出てくるようになった。

創元社「知の再発見」双書の元になっているガリマール社の「デクーヴェルト・ガリマール」(Découverte Gallimard)叢書が、いかにもという主題、意表突く題名で次々出してくるポケット本などが、この内容、この厖大な図版でこの安さというすばらしさで、こういう動向のモデルとなってきたが、絵が字の内容を説明する補助の地位に甘んじている状態は、一部例外(本書評ブログで一番初めに取りあげたファルギュイエールの『マニエリスム』等)を除いて、案外旧態依然である。もっとも、現在早500点になんなんとするデクーヴェルト(Découverte)叢書全巻を揃えることを勧めてはおきたい。かつての平凡社「イメージの博物誌」叢書同様、ヴィジュアルの知的活用、先回紹介のダニエル・アラス流に言えば「思考する絵画」の一挙集積ということで、これ以上のものは他にないからである。

ぼく自身、この種のヴィジュアルで見る文化史という感覚の著者たちに実験の場を開くことになる編集者、山内直樹氏宰領のポーラ文化研究所の季刊誌『is』(36~49号50~69号70~88号)で、ヴィジュアル・エッセーが一ジャンルとして可能かどうかの実験を繰り返し、たとえばぼく自身、文化史としては極限的と自負する『テクスト世紀末』(1992)がその成果である。

きっかけは『is』リニューアルに際しての食卓というテーマの原稿依頼だった。テーブルという語はタイムテーブル(時刻表)というように元々図表・図示という意味なのが、どこからか家具の「卓」になっていく、それが文化にどう反映されていくかというアイディアを形にしようとすれば、テーマ上、厖大なヴィジュアル(まさしくタブロー[絵]としてのテーブル)を結集せざるをえず、いきなり自己言及性をめいっぱい抱えこんだ論と紙面構成にならざるをえなかった。ちょうど文学を広く文化の中で捉え直さなければ旧套な文学研究では早晩行き詰まると感じて、たとえばいわゆる美術史に色目をつかいだしていた1985年に、いきなりテーブル論の原稿依頼は、だからぼくにとって結構決定的だった。ぼくが一時的に集中したもの狂いじみた『終末のオルガノン』『痙攣する地獄』、(目次案のみで未完に終った)『エキセントリック・アイズ』(いずれも作品社)は、本を内容と形式のマッチングのアートとみるデザイン感覚がない素人が、それなりに一生懸命工夫したヴィジュアル・エッセーの集積なので、今見ても懐かしい。

それが松田行正氏は、まさしくばりばりのデザイナーである。ぼくが『表象の芸術工学』(工作舎、2002)で、こういう学殖あるデザイナーがいれば嬉しいねという話を、まさにその世界の大先達、杉浦康平氏の肝煎りでした"pictor ductus" [学ある画家] の理想形を松田行正が実現した。

「物質が集まってできている本という夢想によって本はオブジェとなる」と言い切る真のブック・デザイナーが満を持して出す「本」が、それ自体「レディメード」のアートでないわけがない。本というありふれた一物を見慣れないものに変えて、読む者につまりは見方が変れば斬新でないものは何もないということを告げる「オブジェ」、「レディメイド」として、松田氏の「本」は差しだされている。(何といってもカラー図版の発色にびっくりさせられる。)

実に魅力的な目次だ。対(つい)、速度、遠近法、縦か横か、グリッド、螺旋、反転、直線、混淆、聴覚の視覚化・・・と、一章で一冊のできそうな大テーマの連続。「混ぜる文化」の章なら、新聞・ポスターがそうだという話から「貼る」アート、マニエリスム、スーラ、パピエ・コレ、モンタージュ、大竹伸朗のコラージュ日記と、連想から連想への疾走感が驚異的だ。「ラインと連続」では直線と鉄道敷設の類推から、鉄道の疾走感とタイプライターの文字打ち感覚が似、何故武器会社レミントンがタイプライターを扱ったかという驚くべきヒントを出す。全巻こういうヒントの固まりで、読んで一向飽きない。

いま人文科学が実は一番必要としている「あえて広く浅く」の滑空感、疾走感は、こういうジャンルの草分け、『空間の神話学』等の海野弘氏にそうやって連なりながら、最後は「レディメイド」「デフォルメ」「オブジェ」という自己言及する本というデザイナーなればの三章でしめるあたりの計算にもうならされる。文字・活字・版型といった松田氏専門の領域の話題は流石に年季が入っている。

中沢新一氏の「芸術人類学」から、環境考古学、児童心理学、あらゆる分野を結集しようとしている「今の美術史」のモデルにもなりえているし、洞窟画からナチ美術まで、美術史の問題的時代を網羅する結果になっているのは流石という他ない。若い覇気の必要なジャンルだ。ぼくも松田氏に刺激されて、季刊誌『アイデア』に再び試みたが、挫折。旬のものの輝きにはかなうはずがない。気鋭にも「飽きる」時が来るのだろうか。

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