書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『いい子は家で』青木淳悟(新潮社)

いい子は家で

→紀伊國屋書店で購入

「いい子はたいへん」

 主人公が、「そこそこの関係」をつづけてきた「女ともだちのマンション・ルームにたどり着いたのだった」との冒頭の、その筆の矛先は「女ともだち」との「関係」へは向かわず、くるりとまわれ右して「家」へと戻る。

 彼は、「この穏やかな家庭に波風たてたくない」のである。二十歳もとうに過ぎた男が、女ともだちの部屋での外泊を「親への配慮が煩わしくて」なしにしてしまう、そんな家庭がはたして穏やかといえるのか、というふしもないではないが、彼はとても心やさしく、ことを荒立てるのが苦手な「いい子」であるのはたしかなようだ。

 それよりなにより、すこしまえまで「何をするでもなく家にいて」、女ともだちと会うほかは仕事をするでも学校へ通うでもなく、「いまだに小遣いをもらう身」であることだし、父親は仕事で帰りがおそく、兄は家を出ており、「母親が家で一人夕食を用意して待っているわけで、ごく自然なこととして夜は家に帰るようにしていたのである」。

 さてその「母親」であるが、息子であるところの主人公は「頻繁に外出するようになって、あらためて母親の異能力というものを意識しはじめていた。まだなにもいわないうちから知っているとか、隠しても見抜かれてしまうとか、気づいたら自然に仕向けられていたとか、そういうところがむかしからあった」のだという。

 これはなにもこの母親にかぎったことではなく、女であれば少なからず持つ「異能力」だと思う。主人公くらいの年頃の男ともなれば、それを恋人や妻に感じるようになったりするが、彼は「女ともだち」にそれを感じることはない。どうしたって「母親」の異能力のほうが脅威なのである。

 話はすこしずれるけれど、この「女ともだち」のということばを本編の書き出し二行目に認めたとき、この物語への予感に、ある実感がとっさに引き寄せられたような気がした。

 「彼女」とも「恋人」とも書かれないのは、その女が主人公にとってそう呼びならわすほどの間柄でないからだろうが、ただ「ともだち」と書いては「そこそこの関係」が何のことやらわからない。ちなみに「ガールフレンド」というと、英語では肉体関係をともなう相手を指し、日本語においてはそこのところはあいまいで、どうとでもとれるが、作者がそのことを意識したかどうかはしらない。また「女ともだち」というのもたぶんに含みのある表現といえばそうで、だからときに弁解っぽく「ただの」という前置きがつけられたりする。

 ただし作品中の「女ともだち」は、「彼女」でも「恋人」でもなく、「ただのともだち」でもなく、「ただの女ともだち」でもなく、さらには「女ともだち」にときに感じられるある含みもきわめて希薄なのである。そこに主人公をとりまく世界が透けてみえるようで、読者である私はぐっと身を乗りださずにはいられないのだった。

 案の定、彼の外出の動機である「女ともだち」は、母親には「男ともだち」と報告される。おそらくこの母親には、たとえそれが「ただの女ともだち」だったとしても、その「ただの」を了解する感受性はない。だから、外泊はおろか、外出するのでさえ、息子は母親にたいして細心の注意を払わなくてはならない。

 話はもどって、母親の「異能力」だが、彼女は主婦としての長年の家事労働への従事によって、その力を研ぎ澄ませてきたかのようだ。かずかずの家仕事のなかでも、彼女はとくに洗濯に熱心で、息子の服や靴を洗うことにたいへんな執着を示す。息子が外出した翌日などはことに。昨日の服を洗いがてら「ついでに洗うから」と起き抜けの息子の寝間着を脱がしにかかり、いつもの部屋着の着がえた姿をみては「またそれ着ちゃったの?」とのたまう。息子にしてみれば、外出することへの母親の反応に気を揉むあまり、起きてすぐに外出着に着がえるのを控えているというのに。

 しかしそんな小細工は通用せず、おそらく母親は今日息子が出かけるのか否かをすでに察知している。主人公いうところの「異能力」は、女であれば少なからず持つと私は書いたが、それは女のなかでも「母親」というものにより強く宿るものなのだ。

 「異能力」ということであれば、自分の家も含め、自宅周辺の家々の屋根に、そこにいるはずのない家主である父親たちが、おのおのしがみついている姿がみえてしまうという主人公もまた、なにやら不思議な力の持ち主であるといえる。また、仕事をやめ突然舞い戻った家でのゲーム中「やい課長、やいやいやい」と叫びだす兄にしても、定年退職後、あるとき鼻や口から得体のしれない黒いものをもくもくとあふれださせて主人公を翻弄したのち、妙に意気軒昂となった父親にしても、やはりどうかしている。

 それまで主人公にとって「母の待つ家」であった家庭が、兄の離職と父の退職とで、にわかに四人家族となった。収入のない大人が四人、ひとつ屋根の下で暮らすようになったのは、主人公にとっては「波風たてたくない」どころか一大事であろう。そこで彼が家族へ提言すべく用意した対策は「これからはあまりぜいたくしないようにしなければ」ということで、立場上、家計に口だしできないのはもちろんとしても、その提言すら口にだせずじまいなのは彼が「いい子」すぎるゆえであろうか。

 それにしても、いささか壊れ気味らしいほかの家族にくらべてもなお、「異能力」を持つ母親の不気味さはやはり際立っている。

 表題作ほか「ふるさと以外のことは知らない」「市街地の家」のあわせて三編を収録。どれも「家族小説」というよりはただ「家小説」と呼ぶほうがふさわしそうな物語である。

→紀伊國屋書店で購入