書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『長新太―ナンセンスの地平線からやってきた』土井章史・編(河出書房新社)

長新太―ナンセンスの地平線からやってきた

→紀伊國屋書店で購入

「チョーさんに恋する」

 先日、長新太の回顧展をみた。題して、〈ありがとう!チョーさん 長新太展ナノヨ〉(於・大丸京都店 九月八日~十月八日まで、横浜そごう美術館にて開催)。

 デビュー当時の漫画など初期の資料をはじめ、『はるですよふくろうおばさん』 『ちへいせんのみえるところ』 『つきよ』などの原画に接し、会場の子どもたちといっしょに夏休み気分を味わうことができた。

 子どものころからなじみのある長さんの絵本だが、その魅力をほんとうに思い知ったのは学生になってから。ことに、色面主体の絵本の、一見おもむろで、あっけらかんとした筆さばきがつくりだす、あの茫漠とした空間がたまらなく好きだ。

 大学では美術を専攻していたから、絵というものを意識的にみるようになっていて、だからといって長さんの絵を「アート」だとみなしていたわけではない。むしろ当時、私は「アート」に辟易としていた。お勉強の一環として絵をみるという、その息苦しさのなかで、ひとにとって「絵をみる」という経験が何なのか、美術鑑賞とは何かを自問していた当時の私だったが、そのもやもやを吹き飛ばしてしまう威力が長さんの絵にはあった。いや、それでもすこしは美術学生の眼でみていたところもあったと思うけれど。

 たくさんの作家のお話に絵を寄せた長さんだが、私はやはり「長新太さく・え」のものが好きだ。楽しいが、それだけではない。子どものころにも、長さんの絵を眼にすると、なにやら割り切れない感じをぼんやりと抱いたものだが、大人になってそれが「ナンセンス」というものなのだと学習しても、長さんの世界の「それだけでないなにか」を上手く説明することはやはりできない。

 展覧会でみた『ころころにゃーん』の原画。これは長さんの遺作となった絵本である。うずくまるねこのなんともいえない表情、その背中からちいさな玉がわき出してころころ、それが子ねこになってにゃーん。ころころ、にゃーん、ころころ、にゃーん。ただそれだけ、意味なんてない。ふとしたときにあたまに浮かんで、ひとりで「ころころ、にゃーん。ころころ、にゃーん。」とつぶやいていたりする、ああ楽しい。

 ちなみに長さんには『ごろごろにゃーん』というすばらしい絵本があり、私はそれも大好きである。『ころころにゃーん』では、『ごろごろにゃーーん』のすごさがさらに凝縮され、純度の高いエッセンスとなって詰まっている。

 さて、本書は、絵本はもちろん、デビュー当時の漫画やそのころ参加していた同人誌、装幀や雑誌での仕事、漫画とエッセイの再録、長さんの奥様へのインタビューからなる。

 編者である土井章史氏は、フリーの絵本の編集者であり、吉祥寺にトムズボックスという絵本の店を経営し、同名の編集プロダクションを主宰、自費出版を請け負うほか、長新太をはじめ井上洋介宇野亜喜良真鍋博らの絵本や過去の作品集の復刻、茂田井武武井武雄初山滋の三人の足跡を伝えるための絵文庫など出版している。また、「あとさき塾」という絵本のワークショップでは新たな絵本作家の発掘養成をしている。

 絵本とともに生きる土井氏が長さんに魅せられたのはいまから二十五年まえ。それからというもの、その仕事を「後追い」するかたちで、絵本・漫画などの著書のみならず、雑誌に寄せたイラストやカットにいたるまで、過去の作品を収集してきた。

 「そのうちだんだん、だんだん、だんだんのめりこんでいって、現在のぼくがいる。そしてまた、どうしてぼくは長新太が好きなのかしら、と問うてみる。つねに問うてみる。でもわからない。恋とはこういうものかしら。たしかに、ぼくは長新太という作家と、この作家が生み出す作品に、恋をしているようだ。」

 これまで数々の絵本の仕事にたずさわり、また編集者として長新太の絵本も手がけてきたうえでのこの編者のつぶやきである、いいなあ。

 たしかに、長さんの魅力をことばにするのはむずかしい。意味のあることばを発するよりも、「ころころにゃーん!」と叫んでしまったほうがはやい気がする。恋に理由なんてない、というのと、たしかににている。そこが長さんのナンセンスの王様たるゆえんだろう。土井氏の長さんへの恋心によって編み出されたこの本によって、またよりおおくのひとたちが長さんに恋をしてしまいそうである。

→紀伊國屋書店で購入