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プロの読み手による書評ブログ

『誠実な詐欺師』 トーベ・ヤンソン・著 冨原眞弓・訳 (筑摩書房)

誠実な詐欺師

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「私のなかの「カトリ」と「アンナ」」

 海辺のちいさな村。観光客がやってくるのは夏のあいだだけで、長い冬には訪れるひともなく、村は雪に閉ざされる。

 カトリは弟のマッツとくらしている。村ではよそ者のしるしとされる漆黒の髪と、ひとを不安な気持ちにさせる黄色の瞳。彼女の望みは、誠実な仕方でお金を手に入れること、そして、愛する弟に、彼の夢であるボートを与えること。

 確かな計算能力と判断力とで、カトリは村人たちの手に負えない問題、税金の申告や遺産相続、隣家との境界についてなどを、恐るべき明快さで解決してゆく。しかしそのあまりの公正さ、賢明さ、斟酌のなさは、それまで潜在的であった人びとのごまかしや敵対関係を晒してしまう。

 問題が起こったときはカトリをたよりにする村人たちだが、だれも彼女と親しくつきあうことはしない。カトリはお礼を受け取ることはしないし、めったに笑わず、無駄なおしゃべりもせず、愛想も言わない。人びと何の気なしに採用する、コミュニケーション上の手練手管の一切が、彼女には欠落している。それが彼女流の誠実さというものなのか。道ばたで遊ぶ子どもたちも、カトリが通りかかるとその手をとめて黙ってしまう。

 アンナは挿絵画家で、村のはずれの森にある屋敷にひとり籠もり、森を描くこと、その情景をわがものとすることだけにその力を注いでいる。地元の名士であったのだろう父と母の大きな遺産を受け継いでいる上、作家としての収入も充分にあり、何不自由なくわが道を貫いてこれた彼女は「悪意を剥きだしにする必要に迫られたことがな」く、「いやなことは忘れる尋常ならざる能力をもちあわせている」。ひとを疑うことを知らず、あらゆる人たちから必要以上のお金を請求され、支払っていることに気づこうとしない。猜疑心にかまけているよりも、彼女は芸術に心を砕く。それがアンナの生きる上での無意識の流儀なのだ。

 カトリは自らの望みを果たすため、アンナに近づく。お人好しであるというよりも、実務的なことへの無頓着さと怠惰とで、彼女がこれまで知らぬ存ぜぬを決め込んでいた、彼女に対するあらゆる不正を、カトリが持ち前の公正さと計算高さとで検証し、適切なものとする。その見返りとしてカトリは報酬を得るというわけだ。

 村人たちの例にもれず、アンナもまた、カトリの手によって明るみに出されたこと--恵まれた身の上で、そうとは知らずにすますこともできた悪意や欺瞞を目の当たりにせずにはいられない。いちどあきらかになってしまったことは、もう修正がきかない。そうして、彼女がこれまで疑うことなくきた自身のアイデンティティさえもがぐらつきはじめる。

 こうしてかいつまめば、気の毒なのはアンナのほうにみえるが、アンナもまたカトリを脅かし、その夢を台無しにしてしまう。アンナの「ゆきすぎた善意には怖るべきものが潜んでいるのだが、いまのところだれもそれに気づいていない。」。それほど彼女について知る者はいない。カトリと同様、アンナもまた孤独である。

 はじめて読んだとき、私はアンナの無自覚さとおめでたさからくる罪深さを耐え難いと感じた。つまり、そのとき自分はカトリの容赦のない誠実さに共感していたので、カトリの側から物語を追っていた。けれどもいくどか読みかえすうち、どうやらアンナに通じる部分も思い当たるのだった。

 物語のなかのふたりの女性はどちらもあまりに個性的で、お互いに似通ったところは全くないが、読み手はきっと、カトリとアンナそれぞれの持つ要素を、自らのなかに多少なりともみいだすのではないか。

 ただし、カトリの弟、マッツだけは別格だ。村人たちからは「頭がすこしたりない」とみなされ、どこでも頭数には入れられず、軽んじられている彼を、カトリもアンナも愛している。マッツもまた、アンナとカトリ同様、きわめて個性的で、たったひとりきりの自分の世界を強烈に持つ者だが、「雪のようにきれい」なマッツの無垢を、だれも脅かすことはできない。そのことを知っているふたりは、彼に特別の敬意を払う。彼女らは、その点でだけは一致している。

 だれにも立ち入ることのできない自我のカタストロフィは、トーベ・ヤンソンの作品にたびたび現れるモチーフだが、カトリとアンナ、ふたつの個性の応酬に、どちらからも不可侵のマッツの存在が、ともすれば息詰まるふたりの確執に不思議な親和をもたらすこの物語はとりわけ美しい。

 さて、このふたりの女性の確執の顛末は、あきらかにされぬままである。読者にゆだねられているかのような結末もまた、ヤンソンの物語にはおおいが、後味の悪さはない。

 作者が筆を置きつつ、指さすさきにあるのは闇ではなく光だ。揺るぎない個性によって、互いを打ちのめしてしまったカトリとアンナの行く末は、それまでにはない可能性にみちているはずだ。彼女たちのアイデンティティは、崩壊したのでなく解放されたというべきだろう。私はこれを読みかえすたび、自分のなかのカトリとアンナに照らし、「これまでの私」をふたたび乗り越えられるような気にさせられるのである。

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