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『ロバのカバラ-ジョルダーノ・ブルーノにおける文学と哲学』ヌッチョ・オルディネ[著] 加藤守通[訳](東信堂)

ロバのカバラ

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十字架にロバがかかったイコン、きみはどう説明する?

現代文化の異貌を16世紀マニエリスムに遡って淵源をさぐる時に、ロバという動物象徴にぶつかることがよくある。一番強烈な例がシェイクスピア喜劇"A Midsummer Night's Dream"『夏の夜の夢』(1594)で、生意気職人ボトムが妖精パックにロバの頭をかぶせられ、妖精女王ティターニアに見そめられた挙句、何ともグロテスクな恋愛痴態となる段であろう。ただ笑って見ていればよいのかもしれない乳くり合いを、人と獣と妖霊、異種間雑婚の「グロテスク」と読むのが即ち、シェイクスピアを「われらの同時代人」としたくて仕様がないヤン・コットの「現代」である。

ろばの頭をした怪物を愛撫するシェイクスピアのティターニアはボッシュの絵に現れた恐ろしいヴィジョンや、超現実主義の画家たちが描く大きなグロテスクの絵に近いものであるべきだ。同時にまた、超現実主義と不条理の詩学やジュネの激烈な詩を通過してきた現代の演劇は、この場面を初めて正しく表現することができるようになっている

と、『シェイクスピアはわれらの同時代人』(白水社)のコットは言い放った。一番近いのはゴヤの『ロス・カプリッチョス(気紛れ)』の狂った版画作品だ、と。ぼく個人はもう少し心おだやかに眺められるフュッスリの一幅の方がピンときたので、『道化と笏杖』の扉口絵に、そしてコット著拙訳の『シェイクスピアカーニヴァル』(平凡社)の表紙カヴァーの装画に、ぼく自身でこの絵を選んだ。

シェイクスピアカーニヴァル』は、遅ればせながらバフチーンのグロテスク・リアリズム論にふれて、かねて自説のグロテスク・シェイクスピア観に自身を深めたコットが満を持して世に問うた"The Bottom Translation" が原題。ボトムは職人の名でもあり、「底」という意味。底から尻の意にも通じ、そうなるとケツという下品な意も持つ“ass”につながり、これが言うまでもなくロバである、という「物質的下層原理」(バフチーン)そのものの融通自在の連想がある。

マニエリスムとは聖俗反転の文化の謂(いい)である。性愛においても然りで、コットの言う「毛むくじゃらの」エロスが一方にあれば、えらく高邁なネオプラトニスムの勧める観念愛がもう一方にあり、両極がまた融通するところにマニエリスムの「汎性愛主義」(G・R・ホッケ)が成立していた。コット自身、上ニ名著において、実はこのアルス・アマトリア(ars amatoria)の両面をバランスよく論じ、とりわけシェイクスピア喜劇のヘルマフロディティズム(両性具有)的性格を浮き彫りにしてみせた。流石の林達夫(「精神史」)もコットの野放図とも見える視野の広大について行ききれず、法螺吹き呼ばわりするに至っているのが、時代の限界か。

残念、ヤン・コットがロバを手掛かりに16世紀マニエリスムの核心に迫ろうとしたニ著が、現在読めない。というところに救い手然として出現したのが、ヌッチョ・オルディネの『ロバのカバラ』(1987)邦訳である。

マニエリスム16世紀に「ロバの文学のトポス」が存在したとして、マキアヴェッリの『黄金のロバ』やジャン・バティスタ・ピーノの『ロバの考察』など珍しい作がおびただしく紹介され、ラブレーエラスムス、そしてルキアノスの古代にまで、いくらも遡及可能だ。そこに展開される系譜考は、イタリア・ローカルを除けば完全に、バフチーンがラブレー論冒頭に示し、R・L・コリーの『パラドクシア・エピデミカ』が辿ってみせた、身体復権・逆説嗜好のルナティック・ヨーロッパの系図と間然なく一致する。オルディネは哲学者ジョルダーノ・ブルーノの「ロバが主役を演じる著作の未完の計画」を細かく追尋していくわけだが、マニエリスムの主だったパラドックス文学(エラスムスラブレーシェイクスピア、ダン)を片端から精査しながら、ブルーノのみ挙げないコリーが、「余りにもずっぽりパラドックスまみれだから」と断り書きしていたことも併せ思いだされて、おかしい。

要するに、肯定的性格(労苦、謙遜、忍耐)と否定的性格(閑暇、傲慢、一面的)の矛盾をまるごと生きて「相反物の一致」そのものであるロバに、時代が多様で複合的な曖昧なものに変わっていくのを前にした不安を解消できるかもしれない、とブルーノは考えていた。河合隼雄・中沢新一編 『「あいまい」の知』(岩波書店)を思いだすが、ノーベル化学賞イリヤ・プリゴジンが序文を寄せて「科学者にも読まれるべき」と、このロバ本を勧めているのは、その辺だろうし、この本自体、最終章を自然科学と人文科学の「新しい同盟」のために綴り、ミッシェル・セールのとりわけクレティウス研究を、自らのモデルとして褒める。

先の2000年2月がブルーノ没後四百年祭だった。無限観念を主張して異端糺問の焚刑裡に落命した。要するに、表紙の「運命の車輪」が四百年で一巡して、多様の世界を前に寛容を勧める愚かで賢いパラドックス精神がゆっくりと蘇りつつあることの証言。聖俗、賢愚の反転を知恵として恵む本を続けて何冊か読んできた仕上げには、この本しかあるまい。

批評理論として卓抜しているのは「文のエントロピー」の章。多様性・複合性を主題とする文体や修辞までが「解体」され、ジャンル混淆され、対話の形にならざるをえない「マッチング」(E・H・ゴンブリック)の必然を説く手際は、まるでコリー。そして、まるでバフチーン。なのに、コリーもバフチーンもオルディネは知らぬ気配なのが、結構イタリア学究の「うとさ」で、可愛い。「素人の収集家」として集めたマニエリスム・ロバ画のコレクションは貴重。コリーの重量級な『パラドクシア・エピデミカ』の拙訳間近だが、それまでルネサンスパラドックスの研究書としては、これ以上のもの、一寸期待できない。東信堂はブルーノ著作集を刊行中の実に有難い版元だが、その付録巻の形で、これ以上はないすばらしい一巻を刊行してくれた。東信堂はえらい。

序文は、イタリア発信の名著の常として、エウジェニオ・ガレンである。

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