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『帰って来た猫ストーカー』浅生ハルミン(洋泉社)

帰って来た猫ストーカー

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 世にあふれるあまたの猫本のなかでも、孤高の輝きを放つ猫エッセイの第2弾。

 自由とはなにかを知り、身の程をわきまえ、ただしやるときはやる! しかも気高く美しい。猫とは生まれながらにしてそうした美点を兼ね備えた生き物で、できることなら自分のそのようになりたいと願い、このちいさなけものと生活を共にしているのであるが、彼らはいつでも、こちらの思惑など関心の範疇にないらしい。

 そんなつれなさもまた猫のすばらしさ。家猫でさえ、ヒトのあずかり知らぬ猫の猫たる何かを決して受け渡してはくれないのだから、自由を謳歌する野性の猫のあとを追うことは、そのつれなさと、それでもありあまる猫への思いを我が身にしかと引きうけるということである。

 そんなことはじゅうじゅう承知の上で、浅生ハルミンは猫をもとめて出かけてゆく。郊外の住宅地に、都心の商店街に、東京湾岸の埋め立て地に、鎌倉の寺に。

 期待はしてはならない、そう簡単に出会えるものではないのだ。だけど、たとえ姿をみせなくても、猫はちゃんといるし、生きている。猫にしてみれば、猫ストーカーは猫世界への闖入者、だから彼女は、猫の時間と空間に気易く入り込んだりは決してせず、しかし猫があらわれそうな場所や瞬間や気配に全神経を注いで彷徨い、そして待つ。そのとき彼女はヒト世界の時間と空間、猫世界の時間と空間のあわいにいる。

 ヒトが、自分たちだけでなにもかも作り上げたと思っているあらゆるものは、猫にとってみればただそこにある自然にすぎず、彼らはそれを本能によって回避もすれば享受もしている。それがいいか悪いか、という判断はこれすべてヒトの勝手なのである。浅生はこういう。

 「猫を可愛いと思うのも、可哀想と思うのも、迷惑だと思うのも、どれも似ているような気がしてなりません。」

 ヒトは猫にまつわるあらゆる事象に、利害や好き嫌いや善悪や損得や功罪そのほかもろもろの価値基準によって判断を下し、それは社会や環境や動物愛護などの諸問題へと繋がっていくのであるが、そんなことは猫にとってはどうでもいいこと。この本にはそんな大それたことは一行たりとも書かれていない。ひたすら猫の追跡あるのみ。その、ヒト世界と猫世界の境目にある、緊張と安心がないまぜになったようなひとときを、読者もまた、猫をじっと窺う彼女の背後から息を殺してみまもるしかない。

 運良く、触ったり撫でたり、人慣れした猫が膝にのってきてくれることもある。けれど、この柔らかく伸びやかなふわふわの生き物は、いつだってヒトの手の届かないところにいる。何かしてあげているなどとは間違っても思ってはならない。猫を探し追い求め、出会ったとき、浅生はまるで猫と同等の生き物になったみたいにみえる。それでも残るヒトとしての彼女の思惑が、ヒトが最後まで捨てきれない人間らしさというものなのだろう。

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