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『ニッポンの小説 百年の孤独』高橋源一郎(文藝春秋)

ニッポンの小説 百年の孤独

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 高橋源一郎は「Provocateur」である。「挑発者、扇動者」とでも訳すのだろうが、こちらの心を落着かなくさせる。私たちが普段意識的または無意識的に心の片隅に追いやっているものに光を当てようとする。触れてはいけないものではなく、触れない方が良いのではないか、触れると後戻りはできなくなる―そういった領域に住むものを、容赦なく私たちの前面に引っ張り出してみせる。

 『ニッポンの小説 百年の孤独』では、明治に始まり現代に続いている「小説」とは何かを明らかにしようとしている。まず筆者は過激に問う。「その小説はどこにあるのですか?」困った質問である。当たり前すぎて答えようが無いような気がする。ところが、それこそが作者の狙い目なのだ。「JJ」という雑誌の中から一つの連載小説を探す事で、「小説」の存在自体の曖昧さ、そして私たちが「小説」という「何か」に対して持っている概念がいかに不安定であるか、気づかされる。「闇」に引き込まれるのだ。

 次に高橋は小説の内容を分析する。大抵の小説に書いてあるのは「恋愛と死者に関する事柄」だとし、小説における死者の扱われ方について特に深く考察を進めていく。死を描くことの不可能さと死者を代弁することの傲慢さが明らかになる。それでも、「死」や「死者」を描こうとするのは、「生」を描くために必須だからだ。かつて谷川俊太郎が、死を見失ってきている現代社会は、生をも見失いつつあると指摘した事と重なっていくようだ。

 どんな「文学」かとは良く聞かれるが、「文学」とは何かという問いは、皆避けたがる。筆者はそれに真っ向から向っていく。しかも彼独特の手法で。『うさわのベーコン』という刺激的な作品を始め、数多くの作品を例に引きながら、論を進めていくが、「まったく非難される謂れなどなさそうなものこそ、我々は恐れるべきなのだ。」という主張は、鋭く説得力がある。

 詩と散文についての比較は非常に面白い。荒川洋治の批評を引用しているが、荒川が「小説というものは先頭に立つ人だけが書くもので、読者はそれに『みたない』作家たちの作品を思いきり無視していい」と書くのは、詩人ゆえにできることだ。小説家はその「闇」に触れにくい。詩は危機の果てに「価値」という本質に辿り着きつつあるが、「ニッポンの小説」は「意味」を重視する所からどこへ行くのか。それがこれからの課題であると、高橋は主張する。

 60年ほど前にサルトルは『Qu’est-ce que la littérature ?(文学とは何か)』において、文学作品には読者そのものが反映していると書いたが、現在一見「意味の無い」ように思える「文学」が現れてきているのは、私たち読者の意識と、多様化した(し過ぎた?)価値観の顕在化という現象なのかもしれない。その意味において、私たちも深く文学に係わっている事は、明瞭なようだ。


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