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『都と京』酒井順子(新潮文庫)

都と京

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 「いけずと意地悪」「始末とケチ」「おためとお返し」……。さまざまなテーマ毎に、京都と東京を比較考察した本書。単行本のでたときはつとめて避けていたのだった。京都に暮らして十四年になる。日本というのはどこも、生まれ育った神奈川のように、東京からのびる私鉄沿線の街々の延長なのだと思っていた愚かな私であったので、ところかわれば気候も人もこんなに違うのかとはじめは驚くことしきり、くわえてそれになかなか馴染めずに苦労したので、いわゆる京都ブランドにはことごとく反発していた。本についてもしかり、京都案内、雑誌の京都特集、京都と名のつくものにはすべからく冷ややかな視線を注いでいたのだ。

 いまになって本書を手にしたのは、いいかげんここでの自分の暮らしが板についてきたためでもあるが、著者が東京の人間であり、単に京都というものついてだけを云々しているわけではなく、京都という異文化について考えることによって、東京という自文化を再認識しようとするそのいきかたにもよる。

 それにしても、ぺしぺしと膝を叩きたくなるようなくだりのなんとおおいことよ。

 いけずは、意地悪のように誰でも聞けばわかるというストレートさを持ちません。相手の頸動脈を一撃で断ち切るのが意地悪だとしたら、相手も気付かないような細い血管を何箇所も切っておいて次第に出血多量に追い込むのが、いけず。いやむしろ、傷つけたことすら相手に気付かせず、「あの人と私は、違う」と自分を納得させるためにするのが、いけずなのかもしれません。

 無粋な関東者の私はいくたび、ええい切り捨て御免! と振りかぶろうとした途端、知らない間に流れていた自分の血に気がついてなよなよと萎えるということを繰りかえしたであろうか。でももう平気、慣れたから。いけずにいけずをもってわたりあえるほどの強者にはとうていなれないが、このことばに集約される京都人の高度なコミュニケーション能力は、そういうものだと知れただけでもじゅうぶん、生きる技術の糧となる、といまでは思える。

 柳の枝のように、たおやかだが芯は強く、我慢強いのが京女。いっぽう、「切羽詰まるとどこかキレて、何かをしでかしがち」で、鉄火でちゃきちゃきとしていながら、実はもろい桜の枝のような東女。両者の違いを著者はそう分析したあと、このようにつづける。

 この東女と京女の違いは、「先を見越す能力の強弱」から来ているのではないかと、私は思います。東女というのは、「今この瞬間、幸せになりたい」のです。……「これをやってしまったら、将来大変なことになる」ということがわかっていても、現時点での幸福とか快楽のために、ついつい危ない方向に足を踏み出してしまう。

 「今この瞬間」を大切にする東女は、刹那的で、無常感を抱えているように感じられます。もちろん、都市に生きる者の常としてその手の感覚を私達は持っているのですが、しかし私は、実は京女の方が、東女よりもっと深い無常感の中で生きているような気がするのです。

 彼女達は、歴史という河に浮かぶうたかたの一つとしての自分の役割を、認識しています。そこには、好きな人に会うために放火して半鐘を打ち鳴らすという行為にある「私が主役」感は、存在しない。時の流れの中にある自分を客観的に見た時、「私一人がじたばたしたとて、どうにもならない」という諦念のようなものが浮かびあがるからこそ、京女達は「耐える」ことができるのではないか。

 そんな京女たちを見つめながら、著者は自らがまがうことなき東女であることをひしひしと自覚する。

 「先を見越す能力」の甚だ欠如している東女な私も、幾度となく足を踏み外してはあたりをみまわし、京女の我慢強さに恐れ入るのだが、しかし、どう転んでも自分は京女にはなれない。

 それでも、「そんな自分」を肝に銘じつつ生きていくことができるのは、京都にいるおかげなのである。もしも私が生まれた土地を離れずにいままでいたとしたら、どれだけのことに気づかないまま過ごしていただろう。この点においてばかりは、京都に暮らしていてよかったと、こう思えるようになるまでに何年もかかった鈍くさい私。それにひきかえ、

 私にとって京都は、「すぐ隣にいるのは、自分とは違う人である」ということを、そして、「『自分とは違う』相手とも、人は精神を通じ合わせることができる」ということを、教えてくれた街です。

 と、はればれと書く著者の、いくたびかの滞在で、「千年の都」への自負と伝統による京都の洗練を、するすると掬いあげ、それによって自らの居所を見さだめてゆく勘のよさに唸らされた。


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