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『江利子と絶対』本谷有希子著(講談社文庫)

江利子と絶対

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若いということは偉大なことなので

 本谷有希子。1979年生まれ、と聞いてめまいがしそうになった。若い。自分もいまの本谷と同じ年の頃、若いねえ、と言われて、若いのは俺のせいじゃないわい、と内心イラッとしたものだ。だから、若いなあ、なんて失礼な言い草なんだけど、つい、若いなあ、と言いたくなる。


 本谷有希子の名を知ったのは、映画『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の原作者としてであった。映画がおもしろかったから原作も読んでみた。この作品は姉妹の壮絶なバトルを描いた小説だったが、闘争の末の、ぺんぺん草も生えないような、絶望の荒野の、いっそすがすがしい風情が、非常に新鮮に感じられた。

 この人、自分好みの作家かもしれないと思って、デビュー作『江利子と絶対』も読んでみた。これもおもしろい。それなら、というので、『生きてるだけで、愛。』って、おまえはモーニング娘。か、と思うようなタイトルの題名の本を読み、少しあざとい小説だなと思いながら(葛飾北斎のエピソードはやりすぎだ)、つづいて『ぜつぼう』『乱暴と待機』まで読んでしまった。なにはともあれ、筆者は本谷が好きになったのである。

 どれも読ませてくれる小説だったが、3つの短篇が入った『江利子と絶対』の表題作「江利子と絶対」がとくに好きだ。

 江利子というのは引きこもりの少女である。高校生の頃には、半透明のゴミ袋をかぶって、学校の屋上から飛び降りるというような、壮絶な自殺未遂をしたこともある。半透明のゴミ袋をかぶったのは、死体処理が楽なように、という配慮から。なかなかの娘だ。いまは田舎から上京し、姉と2人で暮らしている。

 ある日のこと、家の近くの電車が横転し、通勤客が多数亡くなるという大惨事のニュースを聞いて、突如、江利子は「前向きになる」と誓ったのだった。「ちゃんと真面目に働いたり学校行ってる人達がああやって死んで、部屋で何もせずに引きこもってる自分が生き残ってしまってすごく申し訳ない気分になった」というのだ。

 若いということは偉大なことなので、傷つきやすい若者はいつも、突如として、前向きになるものである。ライ麦畑で遊んでいる子どもがクレージーな崖から落ちないように見張りをするような人間になりたいなどと誓ったり、江利子のように、死んで行く者になりかわって正しく生きようと誓ったりするのである。世の中の欺瞞に苛立つものの、具体的にステップを踏んで物事を実現するすべを知らない若者が願うのは、いつだって、「絶対的に正しい自分」に変身することなのだ。

 この小説がいいのは、こういう強力な個性を持つというのか、精神的な病を抱えているというのか、そういう妹を、ふつうのOLである姉の視点から語っている点にある。江利子が突然「前向き」になるといったときの、姉とのやり取りを、少し長くなるが、引用してみよう。

「分かんないけど今すぐなんとかしなきゃって思ったんだよ」

「……それで?」

「それで、頑張って前向きになろうって……」

「バイトでも始めるの?」

それは無理、と江利子は早押しクイズの解答者のように言い切った。(中略)

「バイトは始めないの?」

「始めないよ?」

「家から出ないの?」

「出ないよ?」

「だからそれって今までとどう違うの?」(中略)

「引きこもりというハンデを背負いながらポジティブに生きていく。引きこもっているのにポジティブ。…いじけてないところが人生を大事にしてる感じでしょ? ご飯も残さず食べるよ。充実した生活を送るよ。ねえ、どうかな。事故で死んだ人達もちょっと嬉しいよね。なんか喜ぶよね」

 喜ぶかなあと思ったが、この子の目がここ一ヵ月で見たこともないくらい輝いていたので、あたしはとりあえず頑張れと無責任にはげました。バカな江利子はありがとうと頭を下げて握手を求めてきた。

 「ああー、正しい。お姉ちゃん、なんか今、エリすごく正しい感じだよ」

 会話の書き方がうまいなあ、と思う。漫才みたいに言葉が生きている感じがする。早押しクイズの解答者のように「それは無理」と答えるところなんか声が聞こえるようだし、とりあえず頑張れとはげましたら、「バカな江利子はありがとうと頭を下げて」というところなんかも、すごくいいんじゃないか。江利子の輝く顔をあきれたように見つめながらも、姉が妹をのんびりと受けとめている感じがよく出ている。この小説では、姉が語り手になっていることで、江利子の性格の強烈さが和らげられ相対化している。

 「相対化」で思い出したが、大事なことを言い忘れていた。「絶対」というのは、江利子が拾ってきた子犬の名前。「絶対にエリの味方って意味の『絶対』だよ」と江利子は言う(犬に「絶対」なんて名前をつけてしまうところが本谷の非凡なところだ)。胴体のちょうど真ん中に針金が何重にもきつく巻かれて肉に深く入り込んでいるその子犬は、引きこもりの江利子にとって、邪悪なる世界に対して憎しみをいだく自分とは同志になりうる存在だ。江利子はだから、「絶対」に世界が邪悪だと思わせるために、ホームレスのおじさんに頼んで、ゴキブリ退治用のホウ酸団子を押し込んだお握りを「絶対」に食べさせ、自分からしかエサを食べないように「絶対」を仕込む。ここでも姉の語りがいい。

それにしても毎晩、妹が台所で目を輝かせて『前向き前向き』と呟きながらホウ酸をご飯に押し込んでいる姿はまるで我が子にお弁当を作っているように愛情に溢れていてえらく不気味だ。

 ストーリーは、前向きになった江利子が、事故があった路線の電車のなかで出会った、真面目に生きているとはとても思えないようなヤンキー風のバカなカップルに遭遇して、「あんな人間になるくらいならエリは一生引きこもりでいいよ」と呟き、そのうえ、「なんでちゃんと頑張ってた人達が死ななきゃいけないんだよッ? ねえ、もうお願いだから代わってあげてよ? あんたが代わりに死んであの人達生きかえらせてあげて? いいでしょッ?交替! はい交替!」とそのバカップルに逆切れする、というふうに進む。

 江利子にとって世界は「絶対的に」悪であるから、彼女は子犬と自分以外の「外部の世界」をシャットアウトして、内部に引きこもる。自分の世界の「正しさ」に立てこもる彼女は、世界の「正しくなさ」が許せないのである。

 江利子は若者特有の観念の人である。観念の人だから、電車事故で死んだ人間になりかわって正しく生きることを世界のみんなが引き受けなくちゃいけないんだよ、などと考えてしまうのである。それは「絶対」を求める心だ。

 しかし、言うまでもなく、それは江利子の、世界に対する無体な期待にすぎない。そもそも、この世の中には絶対なんかない。○と×に簡単に区分できるものなんてそうそうあるわけでもない。世間は良いところもあれば悪いところもあるだけで、要するに、可もなく不可もない世界にすぎない。だから、江利子の正しくあろうとする「キレイな心」なんて、現実の粗雑な世界のなかではいともたやすく壊れてしまう。

 どんなに心を強くして外部を遮断して、自分と自分が信じられる人や物や動物だけからなる世界を築こうとしても、外部は内部にどんどん流入してくるのだし、内部に住まう者たちが「外」とつながることを防ぐことはできない。「絶対」という名前までつけ、他人の手からご飯を食べようとしなくなるまで仕込んだ「絶対」ですら、作品の末尾で、駅員さんから出されたエサを疑うことなく食べることになるのだ。

 でも、江利子の「前向きになる」といった気持ちのキレイさはやっぱり偉大なことなのだ。「エリのキレイな気持ち返せよ」と言いながら、バカなカップルに逆切れする江利子の気持ちの切実さと、地に足がついていない論理のアンバランスさは、ホールデン少年の我儘さと裏腹の純粋性に通じている。

 小説の末尾。江利子は、姉のある打ち明け話を聞いて、子供のように泣き出す。このラストシーンのすばらしさを筆者はとても文章では説明できない。江利子の気持ちが切なくて、そして姉と妹の、気持ちが別々のようでいて、ちゃんと姉が妹を受け止めてやさしく見守っている感じが伝わってきて、目頭が熱くなる。姉妹の物語としても、この作品は、かなりいいんじゃないだろうか。『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』のクールなテイストも捨てがたいが、こちらもなかなかだ。


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