書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『ダブル・ファンタジー』村山由佳(文藝春秋)

ダブル・ファンタジー

→紀伊國屋書店で購入

「少しダサいくらいがちょうどいい」

 500頁に達しようかという作品なのに、ストーリーがほとんどない。何人かの男が代わるがわる現れ、抑えがたい性欲を内に抱えているのだという主人公の女性と関係を持つ。男から男へと移るときに、かならずいわゆる「糊代」(同時進行)があるから、筋書きとしてはおそらく連続姦通ということになるのか。それにしても起きる出来事は、家出と、香港観光と、メールのやり取りと、あとはひたすら性行為ばかり。

 ああ、なんて馬鹿馬鹿しい、と思うかもしれない。掲載週刊誌の男性読者の視線を満足させるためだけの官能小説。ところが、どうも、それだけではないのだ。村山由佳という作家の作品は、筆者はめくったことがあるぐらいでちゃんと読んだことはなかった。今回のはいつもとは違うというのでちらっとめくり、最初の数頁でやや失望したのだが、読みやめなくてよかった。

 とにかく男がよく描けている。女を描ける云々は、男性作家の腕前を値踏みするときのお決まりの指標だろう。たとえば筆者は、大好きな『明暗』についてある女性に、「あんなの、女の描き方がなってなくて、鼻白んじゃう」みたいなことを言われショックを受けたことがあるのだが(たぶんそこは当たっている)、それを言うなら、女の描く男にこっちが「鼻白む」ことだってあるさ、とも思う。

 男は女に幻想を抱くものだ。女に過大に期待し、過剰に感傷的な涙目でうっとりとながめようとする。対して、女は男を過大にバカにする。男のわかりやすさやみっともなさを、これでもか、と暴く。そこでやりすぎる。ところが、この小説では、それがない。作品冒頭に登場するホストの描き方だけは、主人公の偽悪ぶりがややくどくていただけないが、そのあとに出てくる男性については見事だと思う。たしかに描写の中心は性行為ばかりで、男=性の道具という設定なのだが、その向こうに、「性」を越えた男たちの生活の匂いが生々しく漂ってもいる――プラスもマイナスも。つまり、この小説は、そこに書いていないことも十分書いているのだ。

 主要な男性は4人。夫の省吾、大物演出家の志澤、大学の先輩の岩井、駆け出しの役者の大林。この4人がその「性の作法」を基準に書き分けられる。脚本家の主人公奈津のためにテレビ局の仕事を辞め、主夫役を買って出た省吾は、妻の身体をなぐさめるためだけに、抱きたくもないくせに指でマッサージをしてくれたりする。その存在の鬱陶しさがこれでもかと書きこまれていくのと対照的に浮かび上がってくるのが、もう中年の域を超えた「漁色家」志澤の、激しい獣のような行為。その志澤に捨てられた奈津を迎えるのは、草食系と形容される岩井の、ひたすらやさしい長くて細い指だった。しかし、奈津はそこにも安住できず、好みのタイプではない、という大林に惹かれていく。以下は奈津が攻勢に出ている際の描写である。

大林のポイントは、岩井とも、また志澤とも違っていた。もれる声や息づかいに耳をすませながら、ここぞというところをさぐっていく。岩井は浅く含んで先端を刺激するだけでも充分に感じるが、大林はしっかりと深く含まれるのが好きなようだ。志澤は触れるか触れないかのごく優しい愛撫を好んだが、大林は強く吸いたてようと多少歯が当たろうと平気らしい。

好みのタイプではない男に惹かれてしまう女というのは、恋愛譚の黄金パタンかもしれない。作品の最後に登場するのが大林だというのは、おそらく必然。志澤でも岩井でもいけないのだ。そこには、思ってみない男に惚れてみたい、というような願望が見え隠れする。

 こういう男遍歴を重ねれば、次第にシニカルになっていきそうなものだが、奈津の目は男に対し、いたって寛容だ。とくに男たちの言葉への反応がいい。志澤とやり取りされる激しい重いメール、岩井とのだらだらとゆるんだ会話、大林の気障な片言節句。奈津は実に耳がいいのだ。行為そのものよりも、言葉の方がはるかに性的。男たちの匂いは、彼らの言葉にこそ発する。うわっ、と思うことなどなしに、どのやり取りも気持ちよく読める。青春ドラマのセリフについて奈津が発する、次のようなコメントは要注意だろう。

 ありがちなくらいが、人の胸には届きやすいのだ。少しダサいくらいでちょうどいい。大衆を甘く見ているのではない。セリフというものは、文字をともなわずに音として耳に届くから、あまりにも研ぎ澄まされていてはかえって受けとめてもらえないのだ。鋭利な刃物が向かってくれば本能的によけるのと同じように、鋭利な言葉に対して、多くの人は無意識のうちに身をかわす。

なるほど、という箇所だ。こういうことまで了解したうえでの小説世界なのだ。下手に「お文学」しない。不用意な洒落文句はほとんどなし。情念にあふれてはいても、自己憐憫や感傷は抑えめで、文学に対して斜に構えているのかと見えるくらい禁欲的(プロットの淡白さもそのためか?)。とくに主人公奈津の、格好の悪さがいい。志澤に対してなど、奈津は徹底的に「イタイ女」を演じてくれる。

―― ねえ、思いきって訊くね。もしかして、私がバランスを崩してあなたに依存しすぎてしまったせいで、本当は長く続くかもしれなかった関係を根こそぎ台無しにしてしまったのかな。それとも、今はただ、あなたがいつにも増して仕事に集中しなくちゃならない時期なのだと思って、私は私のことをちゃんとしながら、次に逢える機会を待っていてもいいのかな。

 それだけでも、どうか教えてください。こんなことでお仕事の邪魔をするのはまったく本意じゃないけれど、あなたからぱったり返事が来なくなってしまった理由をどちらだと考えていいのかわからなくて、毎日ほんとに辛いのです。くだらないと思うかもしれないけれど、私にとってはものすごく大きなことなのです。

 押しつけがましいよね。鬱陶しくてごめんなさい。

 きっと、送ったとたんに、あんなメール送らなきゃよかったとめちゃくちゃ後悔するんだろうな。でも、送ってしまいます。正直、胃がもう、限界だ。

〈奈津 拝〉

志澤は、まさにこういうメールをぜったい送ってはいけない相手なのに、まるで吸い寄せられるように出してしまうのだ。見ていても「あ~あ」だし、本人もわかっている。もちろん返事はこない。

 でもこんな奈津が、男たちを惹きつける何とも言えない魅力を持っているのだという。いったいその魅力とは?という問いが、この小説を前に進める力となる。そこを我慢して、我慢して、小出しにする。もちろん容姿などではない。もっと奥の方にあるものを、にじみ出させる。効果を発揮するのは、男たちの言葉の積み重ねである。とくに終わり近く、大林から伝え聞く志澤による奈津評は、それこそ「少しダサいくらいでちょうどいい」というセリフなのだが、ここまで読んだ読者は思わず「そうだよねえ」と思う(このセリフは引用しないでおきます)。その「そうだよねえ」を、どこか間の抜けたところのある奈津がよくわかっていないあたりがまたいい。

 小説の起源は作法書だと言うことがよくいわれる。たしかに、この作品を読んで性について学ぶという人もいるかもしれないし、人間関係の型について何かを知ることもあるかもしれない。しかし、「作法書」の最大の楽しみは、作法から逸脱した失敗例の描写でもある。ジェーン・オースティンもそうだった。作法書はどこかで意地悪なのだ。主要4人には加えなかったが、この小説でぜったい忘れられない登場人物が一人いる。後半に登場する祥雲という軽薄なお坊さんである。どうやら筋肉隆々らしいのだが、その「作法」といったら…。というわけで、その場面を引用して終わりにする。(それにしても最後の犬の比喩はすごい。)

<気持ち、いいですかあ>

思わず眉が寄った。いつかのホストを思いだす。なんだって男たちはこう、同じことを訊きたがるのだろう。おまけに、なんだって行為の最中になると口調ががらりと変わるのだろう。

 この程度じゃ全然、まったく気持ちよくないです、と思いながら、しかしはっきりそう言うことも出来ず、遠慮がちに頷いてみせる。脚の間に祥雲の手が伸びてくるのを、羞じらいを装ってひとまずかわした。

―― 弱った。ちっとも濡れてこない。だからといって、気分を高めるためにと、こちらから相手を愛撫する気さえ起きなかった。もう一度逢いたいわけでもないのに、ここでうっかり岩井お墨付きの腕前など披露してしまうと、あとあともっと面倒なことになる気がする。

<入れても、いいですかあ>

 眉根の皺がさらに深くなった。ここまできて、今さら何を。

 苛立ちを隠して再び頷いてやると、祥雲は奈津の手を取り、股間のものを握らせて自分から導かせようとした。

 大きさは、まずまずだった。奈津は、健康な大型犬の糞を連想した。ころりとしていて、わりに硬い。押し入ってくる時だけ少し期待もしたのだが、ほんの二、三往復で、奥を突かれるにはやや長さが足りず、圧迫感を愉しむにはやや太さが足りないことがわかった。形状の問題なのか、摩擦以外の刺激がほどんどない。

 久々に、演技をしなくてはならなかった。相手のためではなく、そうでもしないと気持ちいいことをしているのだという錯覚さえ起きず、とうてい達することなど出来そうになかったからだ。

 だが――間に合わなかった。

<一緒に、いきましょお―>

 は?もう?


→紀伊國屋書店で購入