書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『文学の精神分析』斎藤環(河出書房新社)

文学の精神分析

→紀伊國屋書店で購入

「文学につける薬」

 「文学」が嫌い、という人が意外に多い。関心がないというのではなく、積極的に、嫌い。筆者の勤務先は、「文学研究者」をめざしている人がいるはずの所なのだが、実際には、文学が嫌い、という人がけっこういる。口で言わなくてもわかる。顔にそう書いてある。

 実は、筆者もそのひとりである。いつもではないのだが、ときどき、嫌いになる。昔はもっとそうだった。「文学」は、胃腸の働きのよくない者には向かないのかもしれない。腹にもたれるし、胸焼けもする。鬱陶しいときには、実に、鬱陶しい。

 そんなときに「文学」の消化分解を助ける薬がある。その昔、筆者がよく手にしたのは精神分析批評だった。この20年の間に精神分析精神分析批評をめぐる環境は変わっていったが、今回、斎藤環の作家論を集成した『「文学」の精神分析』を読んでみて、あらためて「そういうことだったか」と思ったことがいくつある。

 たとえば、一般に「精神分析は頭がいい」という見方がある。たしかにそうだ。金原ひとみの小説に出てくる少女について、精神分析ではこんなことを言う。

 オリジナルなき複製物として、みずからの身体を表象すること。これもまた「死の欲動」なのだろうか? しかし、そうであるなら「彼女たち」の欲望はまたしても、単一の傷を媒介として生の固有性を回復すること、という論理に回収されてしまう。むしろこう考えてみてはどうだろう。複製物の身体を傷つけることは、性器の複製というエロティックな契機をはらむのだ、と。

「回収」なんて言葉、世間では「ゴミの回収」くらいでしか使わないのに、精神分析ではやたらとよく出てくる。だから「頭がいい」なんて言われたりする。しかも、「頭がいい」だけではなくて、正しいことを言っていそうでもある。別の箇所の「真に合理的な価値判断なるものが不可能である以上、人間のなす言動のほとんどは存在証明としての「症状」にほかならない」などというコメントも、その通りかもな、と思う。でも、こういう「頭の良さ」にしても、「正しさ」にしてもどことなく胡散臭くも見える。格好良いいだけに、「ふ~ん」という気にもなる。

 しかし、そういうことではないのだ。『「文学」の精神分析』のとくに冒頭の三つの章を読むと、精神分析批評の可能性がもう少し見えてくる。おそらく本書の中でももっとも力がこもっているのは、「「性愛」と「分裂」 宮澤賢治詩論」と題された第一章。「アウトサイダー・アーチスト」=「表現と自分との距離がない表現者」という枠組みを取っかかりに、なぜ宮澤賢治が今のように読まれてしまうかを、宮澤文学の内在的な問題として考察する。視点そのものもおもしろいのだが、論を展開する著者の手さばきが実にいい。何より、「冷め方」がうまいのだ。

 出だしは、宮澤賢治をめぐる熱狂についての概観である。「表現と自分との距離がない表現者」という視点が出てくるのもここだ。どうも最近の宮澤批評を見ていると、「アウトサイダー・アーチスト」賛美の視線を感じる、という。しかし、ここでは距離を置くのが眼目ではない。そこからむしろ、中に入っていく。つまり、熱狂の中に紛れこんでいく。まるでスパイのように。斎藤は「アウトサイダー・アーチスト」として注目を集める画家ヘンリー・ダーガーの作品から、自身が受けた衝撃について熱く語る。感動的なほどの「いたましさ」を感じたという。それは「ナルシズムのいたましさ」らしい。そこにこそ人は魅せられるのか?と、やや強めの言葉で斎藤は問う。そうしておいて、不意に居住まいを正す。

率直に告白しよう。私は賢治にも、しばしばこうした「ナルシシズムのいたましさ」をみてとることがある。まずこの点において、賢治とダーガーは良く似てみえるのだ。

「率直に告白しよう」と言われると、思わずこちらもはっとする。相手にお辞儀をされたような気になる。ほろっとしそうになる。しかし、告白することで、読者にすり寄ろうなどというのではない。「告白」は仕組まれたものだった。続きはこうである。

ところで私は、たったいま二番目の告白を行った。こうした「告白」こそが、まさに問題なのである。真摯に賢治を語る口調は、しばしば告白に似てくる。それというのも、賢治作品を読む行為は、賢治からなにものかを直接に、無限に贈与される経験に等しいからだ。われわれは賢治からの無償の贈与に対して、つい自らの「告白」を返すことで帳尻を合わせようとしてしまう。だから賢治論は、その分量と多様さにおいてまず異常であり、また異様なほど感動的なものが多い。

この指摘自体ももっともだと思うが、筆者にとって何より印象的なのは、斎藤が上手にこちらを冷ましていくテクニックである。まず、告白すること。それから、告白について語ること。ふっと差し水をされたような気分にある。「あっ」という気になる。

 往々にして、批評家は大事なことを言うときに熱くなる。いいことを思いついたり、大事な地点に上り詰めたりするときには、血行が良くなっている。どんどん進んでいく。あるいは逆に、「オレ/あたしは良いことを思いついた!」と興奮するから、血液やリンパ液が激しく流れるのか。いずれにせよ、批評家はそこで、読者をも自分の興奮の圏内に巻きこもうとする。

 なんだ。それじゃあ、「文学」と一緒じゃないか、とも思う。批評がしばしば「文学」と同じように、あるいは「文学」以上に鬱陶しくなってくるのはそのためだ。しかも「文学」ではなく、「文学風」なだけなのだ。(本書でも使われている「二次創作」という言葉は便利だ)

 これに対し斎藤の批評は、冷えるための装置である。といっても単に冷たいだけでは機能しない。熱さに紛れこみつつ、冷ますのである。外側から「まあまあ」と宥めるのではなく、内側に入っていって、一緒にどこかに下る。奈落の底に落ちるのではない。イメージとしては、床にべたっと座るような感じだろうか。ある種の「平坦さ」に落ち着かせる。どうぞ、お楽に、と。

 さきほど金原論からの一部を抜き出したが、宮澤論にも次のような箇所がある。

フロイトラカン的な意味における「去勢」とは、万能の母親との近親相姦的な性愛関係を、エディプス期における父親の介入によって断念することであり、この過程を経ることで、人間は「語る存在」として象徴界に参入することになる。ほとんどの人間は、去勢によって言語秩序のシステムに組み込まれ、言語によって無為な万能感から自由になると同時に、言語によって病む(神経症)という可能性をも獲得する。
 しかし、たぐいまれな言語の使い手である賢治に対して、はたして本当に「去勢」が欠けているなどと言いうるものだろうか。
 より正確に言い直すのであれば、実は賢治に去勢は欠けていない。賢治における「二者関係の病理」に似てみえる印象は、「去勢の否認」によってもたらされたものだ。ただし精神分析によれば、去勢否認はひとつの病理として、性的倒錯の原因となる。ならば賢治には、いかなる倒錯の痕跡がみてとれるだろうか。

「うわ、ラカンだ!」という人もいるかもしれないが、「どうだ、ラカンだ!黙れ」というふうに屹立するための引用ではない。といって熱くないわけでない。熱くないわけではないのだが、この部分だけ読むと「プラス」と「マイナス」と「イコール」をふんだんに使った演算式のようにみえるし、まるでガラス越しに文学とかかわっている気分にもなる。

 しかし、ほんとうにガラス越しなら、こちらも白けてしまうところ。始めから読んでここにたどり着くと、それまでの徐々に下っていく手続きのおかげで、これは冷たいのではなく、冷ますための手続きなのだ、というふうに感じられる。つまり、批評の全体がさめていくためのプロセスになっている。冷たいのではないし、ましてや白けるのでもない。熱をこもらせながら冷めていく。ちょっとぞくっとするような、快感である。

 本書で扱われている作家は宮澤賢治小島信夫三島由紀夫といった古典系から、多和田葉子金原ひとみ古川日出男などの現代作家、さらには中井久夫なども含んでいる。冒頭はメタ批評の趣が強く、だんだんと作家論、そして入門・解説的な色彩が強くなっていく。ここでは主に宮澤論を取り上げたが、小島信夫についての章も江藤淳へのからみ具合が見事だし、中上健次の章で文体を説明するあたりも、決して議論の中心ではないのだが、著者の眼の冴えが感じられる。

 対象が石原慎太郎でも東浩紀でも著者の手際はたいへん鮮やかで、この人はいくらでも書けるのだろうなとも思ってしまう。しかし、そこは微妙で、「いくらでも書けるだろうな」と思わせる風情で書かれたところよりは、たとえ策略がらみでも、不意に居住まいを正したり冷まそうとしたりするジェスチャーの混じったところの方が引きこまれる。きっと著者が内にこもらせた熱のせいか、などと考えると、まさに斎藤の言う「転移」だの「症状」だのに陥ることになるのかもしれないが。


→紀伊國屋書店で購入