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『ポライトネス入門』滝浦真人(研究社)

ポライトネス入門

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「敬語論ではありません」

 「ポライト」(polite)という英語は、ふつう、「丁寧な」と訳される。だから、このタイトルを見て「なんだ、敬語の話か、マナーの話か」とがっかりする人もいるかもしれない。しかし、それは間違い。「ポライトネス」という概念は、もちろん敬語と無関係ではないのだが、従来の狭い意味での敬語論とは違い、哲学、文化人類学社会学言語学、文学などを巻き込みつつ、もっと遙かに広い知の領域を、しかも遙かに魅力的な形でカバーする。少なくともそういうポテンシャルを持っている。あまりに領域横断的で斬新なので、今のところ、日本語には翻訳不可能。だから、このようにカタカナをあてている。

 実は筆者はひそかに、「ポライトネス理論」が、次世代文学理論の芽を用意するのではないかと期待している。そろそろみなさん、ポスコロetcには飽きたころかな、という気配を、学会などでの雰囲気からは感じる。しかし、ポスコロには飽きちゃっても、我々にとって切実かつ刺激的な「知のポイント」というのはそうあるものではない。

 そうした「知のポイント」の代表例が「他者」という概念だろう。ポライトネス理論の出発点もそこにある。滝浦は第一章の「「ポライトネス」の背景」でこのあたりの事情を手際よく説明してくれる。ポライトネス理論のモデルになった思考の枠組みの源流は、近代社会学の基礎を築いたと言われるデュルケームまで辿ることができる。デュルケームは、人間が聖なるものを聖なるものとして遇するときに、積極的儀礼と消極的儀礼という二つの相反する方法があることを指摘した。積極的儀礼において、人はその聖なる対象に限りなく接近する。たとえば像に接吻するとか。象徴的にその身体を食べるとか。逆に消極的儀礼においては、対象から限りなく遠ざかる。名前を呼ばない、偶像をつくらない、遺物を隠す、など。人は両極端の距離の使い分けを通して、「聖」を表現してきた。

 しかし、デュルケームの本当の慧眼は、聖なるものが人間に取って代わられうるということを見抜いていた点にある。滝浦は『宗教生活の原初形態』からの次の一節を引用する。

人間性とは聖物である。人は敢えてそれを犯そうとはしないし、その境界を越えて踏みこもうともしないものである。ところが同時に、最大の幸福は他者との交感にあるのだ。

つまり、人は他者との関係においても、積極的儀礼と消極的儀礼に類する両極端の距離を使い分けているというのである。

 デュルケームのこの枠組みを受け継いだのがゴフマンであった。ゴフマンは「自己」なるものがアイデンティティとして、つまり「目的地」として探求されるものというよりは、さまざまな状況の中で、相対的に表れてくる「匿名的な主体」であるという視点をとる。そして「同じように「自己」を持った多数の人びとがどのように衝突を避け、かつ接点を作りながら道を通って行くか」という、その「交通ルール」を理論化しようとした。その際にゴフマンが立てたのが、「フェイス(face)」という概念である。中心となるのは、次のようなテーゼである。

人びとは、相手と自分の「フェイス(face)」をあたかも神聖視するかのようにふるまい合い、フェイスへの配慮に最も大きな価値を置く。

そして「フェイスへの配慮」に際して、例の積極的儀礼と消極的儀礼とが関わってくるのである。近づくことと遠ざかること。この考え方を使うと、たとえばフランス語で「丁寧な二人称」とされるvousが、なぜ複数形を転用したかも説明できる。複数形を使うことで直接指さない。曖昧化する。それが距離を生み、聖性を作り出すことにつながる、と。

 この「フェイス」という概念を土台にしてポライトネス理論を確立したのがブラウン&レヴィンソンであった。画期的なPoliteness: Some Universals in Language Usage(改訂版1987)では、人がコミュニケーションのなかでどうやって自分や相手のフェイスに配慮するかが体系化されている。これがまさに聖典ということになるのだが、正直言って、それほど読みやすい本ではないので、『ポライトネス入門』に多少なりと刺激された人は、同じ著者による『日本の敬語論 ― ポライトネス理論からの再検討 ―』などに進み、少しずつ本丸に攻め込む、もしくは勝手に周辺領域へと脱線し、開拓するというステップをとるのがおもしろいのではないかと思う。

 たとえば、politnessという理念そのものは18世紀のイギリス文化では一世を風靡した流行語であった。当時、成り上がり者たちの間で社交術や会話術、国語論などが大きな関心の的になっており、そこで最大の美徳とされたのがpoliteという呼ばれる振る舞いだったのである。我々がふつうpoliteというときには、今でもこちらの文脈の方が想起される。この方面の研究は歴史学、文学の領域で着々と進行中。やがて女性の作法書が主流になったこともあり、フェミニズムとも関連が深い。しかし、こうした旧来の「ポライトネス」が、本書で扱われる「ポライトネス理論」と無関係なわけでは決してない。むしろ、「ポライトネス理論」から出発して、18世紀や19世紀の西洋文化について考え直すのも大いにあり、ではないか。

 ポライトネス理論はまだまだ若い思考の枠組みである。そのせいもあるのか、意欲的な学者、とくに言語学研究者は体系化・全体化へと向かいがちのように思う。しかし、筆者のような立場の者から見ると、むしろポライトネスという枠組みを持ってくることによって、硬直化しつつある旧来の理論を揺すぶったり、崩したりということもできそうに見える。

 本書はそういう意味でさまざまなヒントをくれる。そもそも言語学の立場からの提言なので、断然迫力があるのは、第6章で終助詞「か/よ/ね」を扱ったところ。出発点となるのは、これらの終助詞をいかに言語学的に説明するか?という問いだ。滝浦は従来の解釈が語の「意味」に偏向し、それゆえにこれらの終助詞の使い方を説明しきれなかったことを指摘したうえで、例の「距離」の感覚を上手に生かした解釈をする。それぞれの終助詞について、話し手からの、あるいは聞き手からの距離感(実際にはもうちょっと精密な言い方をしているけど)を元にきわめてシンプルで美しいモデルを立ててみせる。とりわけ見事なのは、なぜ「かね」「かよ」「よね」といった助詞同士の連結が可能なのに、「ねか」「よか」「ねよ」といった組み合わせはできないのかを説明するくだりである。興味のある人はここだけでも是非、読んでもらいたい。言語学的議論の醍醐味を味わわせてくれる一節である。

 ほかにも考えるヒントはいろいろ提供されている。文学作品やナラトロジーに関心がある人は、距離のテーマが、話し手と聞き手の間の「触れる/触れない」といった問題へとつながっていくあたりがおもしろいはず。自由間接話法の問題など関連領域も多い。そういうことなら、物語の語り手についてもあんなことが言えたり、こんなことが言えたりするぅ!という声が聞こえてきそうだ。また、会話の中で人はいつ沈黙し、いつ相手の言葉に自分の言葉をオーバーラップさせるのかといった話や、<問い―答え>や<依頼―了承>のような「隣接ペア」と呼ばれるやり取りの微妙な運用が、どのように人間関係を反映するのかといった話題も、実に奥深い。こんなことを言うと言語学を専門とする方々に怒られるかもしれないが、言語学に独り占めさせておくのはもったいないようなおいしい視点である。

 言葉を「意味」だけでとらえるのではなく、その運用の状況に差し戻して解釈し直すという意味では、ポライトネス理論はJ・L・オースティンの言語行為論にも近いし、ということは60年代以降のフランス系の哲学・言語論とも接点を持つ。他者を考えるときに、「人間関係」という一見ベタな視点を取り入れるあたりが、むしろ「倫理性」なるものを柔軟な形で話題にする助けになるのかな、という期待をさせるのである。


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