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『一箱古本市の歩きかた』南陀楼綾繁(光文社文庫)

一箱古本市の歩きかた

→紀伊國屋書店で購入

 職業として古本を扱っていない人たちが、おのおののコンセプトで古本をセレクトし、段ボール一箱ぶんを持ち寄って集まり、市場をひろげる。「一箱古本市」なるイベントは、著者が住む谷中界隈で二〇〇五年の春に開催した「不忍ブックストリート一箱古本市」がそのはじまりである。


 イベントというと、特定の会場や広場などある一カ所に集中して行われるものを連想するが、これは谷中・根津・千駄木、「谷根千」とよばれる地域のさまざまな店の軒先を一箱古本屋が借りる、という形式をとる。


 あわせて地図もつくった。もともと週末などは多くの人が賑わう町である。くわえて、古くは漱石や鴎外ら作家多くの作家や出版関係者が住まい、「谷根千」の呼び名のもとともなった地域雑誌『谷中・根津・千駄木』があり、講談社がその社屋を最初に置き、今日でも編集者やライターが多く住むそこは、本とかかわりの深い場所。そこを「本と散歩が似合う町」として、主催者がおすすめしたいさまざまな店を示し、楽しんでもらえるようにとの寸法である。こうして、段ボール箱一箱の古本屋が点在する町を舞台に本と遊ぶイベントが誕生した。


 段ボール一箱というと、そこにおさまる本は三十~五十冊、それを売るといっても、手間や運送費を考えれば、古本を生業とする人にとっては、とてもわりにあわない仕業である。

 だけど、普通の人がそれぐらいの冊数を選ぶいうのは、なかなか大変だ。思い出の本もあるし、最近買った本も混じるだろう。一箱のなかに収まる冊数で、その人の読書傾向や性格が反映されたひとつの宇宙をつくることができたら、相当面白いのではないか。

 長年暮らした地元で古本市を、しかも、ふだんは読者である人たちの本との関係があらわれでるイベントを、との発想は、『本とコンピュータ』の編集者を経て、フリーのライター・編集者として、本に関するあらゆる事象を追いかけてあちこちを飛び回って飽きることなく、ことに古本が好きでこれと深くかかわってきたこの著者らしい。

 大切なのは、売り買いそのものではなく、本によって生まれる人とのかかわりあい、さらにそこから生まれる本と人とのあたらしいかかわりあいなのである。

 この「一箱古本市」はいまや、東京のみならず日本各地にひろがっている。本書では、「ミスター一箱古本市」なる称号を得てしまった著者が、地方を駆けめぐり取材したそれらイベントがレポートされている。

 福岡・名古屋・仙台・広島など、それぞれの主催者が、それぞれのその町ならではのプランとかたちでイベントを行っている。利益を追求するためのものであれば、もっとも効率のよいやり方だけが採用されてゆくところだが、こうしたさまざまなありかたは、「本と遊ぶ」という感覚ゆえのこと。また、この感覚をつねに忘れることなく仕事を重ねる著者の発想が、全国の本好きたちに受け入れられたためでもあるだろう。

 さいごには、昨今の出版業界の低迷を受け、著者自らが、読者としてこれまでどう本と出会ってきたかをふりかえり、読書と読者のありかたの変化について考察する。

 ここで著者は、作家や出版社から供給された本を読者がただ享受するという一方的な関係が、インターネットの普及により複雑化したこと、本をネットで買うことがあたりまえとなったこと、二〇〇〇年代に入るとブログによって本に関する情報がより手に入りやすくなったこと等に触れている。そうした状況から、本を「読む」だけにとどまらず、「そこで得たものについて多くの人と話し合ったり、情報として提供したりしている。読んだり、買ったりするだけでなく、本と遊んでいる」人たち――「能動的な読者」たちの動きが活発化し、彼らへの出版社の反応や、それを受けて書店のイベントが変化したともいう。

 あるいは、「ブックカフェ」とよばれるあたらしいタイプの書店や古書店、本にまつわるミニコミやフリーペーパー、オンライン古書店の出現などを背景として、本のプロだけでなく、読者自らが本を扱うことのできるブックイベントが隆盛し、本をめぐる状況や日常的な本とのつきあい方の変化を生みしてゆく可能性をを思い描く。

 これから先、街の中心地に小さいながらも個性的な新刊書店や古本屋が戻ってくる可能性は、残念ながら低いかもしれない。しかし、地方のそれぞれの街でブックイベントが盛んになれば、そこに参加した人が本に関する新しい動きをはじめることは充分に考えられる。その中の誰かが、ぼくたちが想像しなかったようなカタチで、本屋さんをはじめることもあるかもしれない。そうやって、ブックイベントというお祭りが、日常的な本との付き合い方を変えていけばいい。

 本は読んだらおしまい、でないのは、私にとってはそれが仕事に関係しているからなのだが、もの書くことのきっかけとなったのはミニコミづくりであり、それは読書によって得たものを外へ向けて発信したかったためであったのだ。

 さらには、たんなる読者にすぎなかった私に、ミニコミづくりのきっかけを与えてくれたのは、なにを隠そう、南陀楼綾繁その人なのであった。十年ほど前にはじめて出会ったとき、なにやらかばんのなかからいろいろな冊子をとりだしては、それがどんなもので、どんな人が作っているのかを嬉々として語っていた彼である。それを見て、そうか、本って誰が作ってもいいんだ、と思ったのだった。

 いま、ミニコミや古本に関するイベントにかかわることはあっても、個人的には、部屋のなかでひっそり顔をつきあわせるおともだち、これさえあれば、ともだちなんていらない、などと思うこともしばしば。しかし、わが来し方を思い返せば、自分も「能動的な読者」の一員であったのだった。書を捨てて、ではなく「書とともに街へでよう」と著者はいう。街とは、家の外の世界だけをいうのではあるまい。自らの外側へ自らをひろげてゆくこと、表現することのはじまりはそこにあるのだということを、本書は思い出させてくれる。

  

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