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『転身力』小川仁志(海竜社)

転身力

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山口県に面白い哲学者がいる!」

 それまでの生き方から、がらりと変身した人に興味があります。
 「人生でひとつだけのことに専心して、そのことによって生活ができ、家庭を養うことができる。それが幸福である」

 その価値観が日本の高度成長を支えてきたような気がします。これは職人の価値観であり、人生観でしょう。長い歳月をかけて師匠から教えられる職人の技が尊重される世界では、人生でひとつだけのことに専心する人が高く評価されるのです。その職人の技によって日本は豊かになりました。

 しかし、いまはそういう職人の価値観が崩れている時代。一生をかけて体得した技、知恵、価値観が、その人の生活・収入に直結しないことが増えています。情報革命が暗黙知だった仕事を可視化して、交換可能にしていったためです。そしてその交換可能領域は増え続けています。

 そんな時代ですから、すべての職業人は、自分の職業に誇りを持ちにくいですし、自分のポジションはいつか誰かに取って代わられるのではないか、という不安のなかにいるものです。現代人とは多かれ少なかれ、この不安に突き動かされて生きている。

 だから転職=転身することは不可避であり、そのことが人生プランに入っているべき。そういう時代感覚に移行している。いまはその過渡期であると思います。

 専業フリーライターから、会社員との兼業ライターになった私は、ひとつの生き方から転身した人についての書籍を探していました。

 本書「転身力」は、市役所勤務の役人が、哲学者に転身するまでノウハウがつまっています。

 タイトルだけでは「役人から哲学者になった」のか。役人の仕事ってたいして面白くないから、つまらない仕事から面白い仕事に転職しただけではないか、と勘ぐりながらページをめくったですが、この思いこみはきれいに裏切られました。

 小川さんは、京都大学卒業後に入社した伊藤忠商事勤務時代に天安門事件に出会ってしまいます。若かった彼は人生観を揺さぶられ、営利活動よりも社会のために動きたい、と転身を決意。司法の世界で仕事をしようと司法試験に取り組みます。フリーターをしながらの受験生活です。不安定な生活に追い込まれた小川さんは、心身共にぼろぼろになってしまいました。

 人生の再スタートとして選んだ職業は市役所勤務の役人。30歳で名古屋市役所の採用試験を突破、正式採用されます。公的なことを仕事にしたい、という思いで選んだ職業でした。普通ならば、出遅れた社会人として、がむしゃらに働くのでしょう。しかし、小川さんは冷静に役所内でのキャリアアップを計算します。勤続年数で出世が決まる役所では定年までに行けるポストは限られています。エンドレスで仕事をする職業感覚が残っている役所で、小川さんはワークライフバランスを意識。残業なしで生きていこうと決めるのです。ライフワークとして公共哲学を学びたい、という夢もありました。そのために残業をするわけにはいかなかった。安定した職業に就いた彼は結婚し、二児の父になっていました。家庭、仕事、哲学研究という3つの生活のバランスをとりながら、転身のチャンスをうかがいました。哲学で生きていくために、懸賞論文に応募。見事に入賞して、自分の力でキャリアをプロデュース。市役所勤務という社会人経験を最大限前向きにアピールして、山口県高専で哲学教育の教員としての採用され、「哲学を教えることで生きていく」という夢を果たしたのです。

 小川さん以上に転職歴・転身歴の豊富な人はもっとたくさんいることでしょう。この日本では転職・転身を評価しない風潮がまだ強い。出身大学と初めて入社した会社のブランドで、その人の人生のすべてを決めてしまうような価値観はまだ消えていません。その中で、山口県の地方の高専が、小川さんの実績を評価した。そのことに、私は時代の変化を感じました。地方の経済・文化は一部を除いて疲弊しています。小川さんの書かれているブログ「哲学者の小川さん」を読むと、彼が山口県の文化の活性化のためにさまざまな活動を展開していることが分かります。「公共哲学」の実践をされている。転身経験のある人が、現代のような動きの速い時代に必要とされているのです。

 小川さんは「哲学カフェ」という、見知らぬ人同士が哲学的な思考を楽しむ集まりも主宰されています。私も浜松市で「哲学カフェ」をやろうと準備中。きっかけは小川さんのブログでした。転身組のひとりとして元気をもらいました。

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