書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『私語り樋口一葉』西川祐子(岩波現代文庫)

私語り樋口一葉

→紀伊國屋書店で購入

 明治二十九年の夏、本郷丸山福山町の崖下の家で、病床にある一葉がおもいめぐらすさまざま。樋口家の来歴、いく度も住みかえた家、歌塾・萩の舎での日々、兄と父の死、母と妹との困窮生活、小説の師・半井桃水、龍泉町での商売……。一葉の遺した日記のほか、後世の研究者によって明らかにされた伝記的事実にもとづき、一人称によって書かれた評伝である。これに、ふたつの一葉小論が併録されている。そのうちのひとつ、評伝の創作ノートともいうべき「性別のあるテクスト 一葉と読者」のなかで、著者は一葉の文体についてこう書いた。

 (……)女ことばは曖昧表現の他にさまざまな規制と規範をもっていた。樋口一葉は物言いの女ことば、書きことばの女文の規範をまもりつつ小説を書いた。しかも一葉は(……)自分自身は当時の女の規範をずれたすねものと決めていた。斎藤緑雨や後の和田芳恵は一葉の屈折した表現や韜晦癖にひかれ、規範的な女文の行間を読もうとした。妻、母の資格で語るのではない一葉が自分自身で埋めなければならない空白の意識は、近代文学が追究する自我の中でも、もってもラディカルな性質を帯びることが予想されたからではなかろうか。


 一葉の場合、女ことばで書くとは、自然な、無意識の行為では全くなかった。(……)一葉は意識的な文章を苦労しながら書いた。歌の題詠と規範的文章の書き方を教え、文を書くことによって、それだけで食べてゆかねばならないプロフェッショナルだったからである。

 評伝のなかで、一葉は回想する。小説の師となる半井桃水の家をはじめて訪れた時、「まるで御殿女中のようにしずしずとおでましになって、物を言うにも遊ばせづくし、ほんとに困りました」と言われたのだった。かねての望みであった小説家への道を開いてくれるかも知れない人物との初対面、一葉がどれほど必死であったことか。

 一方で、創作については、女性の書いた女のせりふは乱暴で女らしくないと意見される。女形は現実の女よりいっそう女らしいではないかという桃水のことばは、一葉の心に残った。一葉が、女性を語り手とするのにふさわしい文章、現実の女より女らしい、関礼子が「女装文体」と呼んだ(『姉の力』筑摩書房、93年)書き方を採用したのはそのためである。

 しかし、この評伝での私語り、死の床で喘ぐ一葉の「頭に通り過ぎてゆく言葉の列」には性別がない。ここでの一葉はすでに日記を書くこともままならないのだ。苦しまぎれに帳面に書きつけた一行は、「病人でも夏は暑い」。

 (……)あれは雅文でも新聞体でもない、言文一致体をも越えている。何もかも削ぎとった無愛想な文章。私が一度も書いたこと、読んだことのない文章である。(……)

 もう、なよやかな女文字で女言葉を綴ることはないのだ。私はすでにこの世の者ではない。定められた人の道を離れ、天地の法に従う存在には、大丈夫と愚人、男と女のけじめなどありはしない。虚無にあっては君もなし、臣もなし。君という、そもそも偽りなり、臣というもまた偽り、の境地に立つ。身分の上下、男女の左右の別は人の世の定め、生きているうちから人の世を脱してしまったこの私にはすでに何の意味もない。(……)


 文字を覚え、文章を書くことを学んだ私は、文字によって少しずつ時空を越え、身分の差を越え、男女の別を越える術を知った。

 「私が一度も書いたこと、読んだことのない文章」とは、一葉が、職業作家として意識的な文章を書かねばならなかったからこその評であろう。女ことばの規範のなかでこそ書きえた一葉の近代性は、「書くしかた」と書き手自身とのあいだとの間にあるものを読むという近代的な読書を促し、それゆえに一葉の作品はこうまで後世の読み手を惹きつけ、あまたの一葉論を生んだ。従来の、三人称・過去時制という評伝の書きかたではない、一葉自らが語るというこの方法もまた、一葉という作家に対するひとつの「読み」なのだろう。

 本書のオリジナルが出された92年以降、一葉を女性の視点で読むことがさかんに行われるようになったという。文庫版のあとがきにはある。

 なぜ女の視点で読むことがあの時いっせいに始まり、支持されたのだろう。あれは与えられた物語をそのまま読むのではなく、考えながら読むことによって作家とともに読者の数だけの物語を創出する積極的読書に女性も加わった瞬間だったのではないだろうか。それまでは女性の作家はいても批評家は少なかった。批評の読者も少なかった。批評の読書とは、読書の読書をすることである。読書の読書は乱反射をくりかえしながらさらに複雑な物語を生む。

 評伝には細かな注が付されているため、読者は記述の裏付けとなった資料にあたることができる。この道しるべによって読者は、「与えられた物語をそのまま読む」のではない、批評的な読書に足を踏み入れることができるだろう。

→紀伊國屋書店で購入