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『きれいな風貌 西村伊作伝』黒川創(新潮社)

きれいな風貌 西村伊作伝

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 カバーをみてまず驚いた。日露戦争の徴兵を逃れるようにして、シンガポールに滞在していたときの写真の彼は21歳である。日本人離れした面立ち、民族衣装に身をつつんだすらりとした立ち姿はなるほど「きれいな風貌」だ。


 2002年に開催された「『生活』を『芸術』として 西村伊作の世界」展には、この写真が展示されていて、それを私は見ているはずなのだが、記憶にのこっていない。西村伊作という人が、このように目立ってハンサムであることを意識することはなかった。

 そのときの展示で印象的に残っていることといえば、たとえば彼の理想の生活の場として設計した家や、そこに置かれた家具。自らデザインして妻に縫わせたという子ども服、アメリカから取り寄せて読み、参考にしていたという家庭雑誌などである。

 アメリカ帰りの叔父・大石誠之助とともに開いた洋食店「太平洋食堂」の写真も目についた。陸の孤島ともいうべき新宮の町に出現したレストランは、町の人の目には、さぞ新奇なものにうつっただろうとそのとき思った。本書によると、その店名は「近くに広がる大海と、自分たちがPacifist(平和主義者)だという意思表明を、掛けあわせ」たものだとか。

……山地が海近くまで迫り、平野部をほとんど持たない紀州の海岸地方は、かたや、眼前に広く太平洋が開けている。まだ、大阪や名古屋に行くにも船の便に頼るしかなかった時代である。どうせなら、この海をまっすぐに越えていき、外国で働いたり勉強したりするのも、悪くなかろう――。そんな具合に、明治の早くから、必要とあらば北米や豪州へとためらわずに渡って働く独立と先取の気骨が、この地に広く行き渡っていたのも確かである。

 クリスチャンの両親の間に彼は生まれた。外海にさらされた町で、まさに「独立と先取の気骨」に富んだ父・大石余平はこの地に初めてのキリスト教会を建て、幼稚園を作り、パン食や牛乳をひろめた。また、当時とても珍しかった洋服を息子に着せた。

 7歳のとき、父の仕事のために移り住んだ名古屋で、濃尾地震に遭い、両親を失う。その後、奈良の山林地主である母方の西村家の養子となり、莫大な財産を相続した。

……彼には、金持ちである意味をいやおうなく考えさせられながら成長したふしがあり、金持ちには金持ちとして果たすべきところがあると考え、革命の時代が迫ってくる自罰の意識のようなものにも負けずに、その道を歩こうとした。

 そこで伊作がしたのが学校建設だった。文化学院は、彼の相続した広大な山林から伐採した材木を売った金によって運営されたのである。経営に口出しされるからといって、寄付も募らなかった。

 逆に、財産家の彼のもとには、さまざまな援助をこう人が絶えなかったが、それに答えることはなかったという。

 地元・新宮の名士として、さまざまな寄付や助力を求められる機会が多かったが、伊作は、金銭の求めにはほとんど応じなかった。町の情実に浸かって生きることを、みずから恥じるべきこととして、戒めるところがあったのだろう。

 1919(大正8)年、武者小路実篤の「新しき村」設立の翌年のこと、新宮からそう遠くない三重県牟婁郡木本町にも、「黎明ヶ丘」という〝理想郷〟を建設しようとした牧師がいた。その人からの資金援助の申し出を伊作は断り、キリスト教系の雑誌にその「黎明ヶ丘」の人々に向けた詩を寄せたという。

 ここには、端的に、彼のキリスト教観、また、彼が正規のキリスト教徒となることを選ばなかった理由が、よく出ている。

 人はみな(牧師も)〝心貧しき者〟であることにおいては、同じである。だからこそ、「我が罪」をさらす以外に、「人を教ふる」道はなく、内省、つまり懺悔だけが「真の説教」に足るものだ――と、そう言っている。

 ……

 大逆事件の結果から学んだことで、彼は、こうした極端を嫌う態度に至ったわけではないだろう。そうではなく、むしろ、これは、――過度の「正しさ」の主張というのはたまらない……、もしも、人が生きるべき道筋が、あらかじめそのように定められているならば、自分が自分である余地がなくなってしまう――という、生来の彼の勝手さ、その独立した気性の表れである。それが知らず知らずに働いて、彼を、大逆事件の犠牲者たちと違った道を歩ませた。この世に正義などはない、と思っているのではない。むしろ、「正義」への陶酔が、じきに自己欺瞞へと結びつくことを、若いうちから彼は敏感に感じ取り、それへの疑念が続いてきた。かつて自転車で社会主義の本を行商したりしたことを、悔いるところはない。だが、それが繰り返しに陥ると、平板なイデオロギーの支配に変わっていく、と。

 幼い頃に両親を亡くした伊作は、父方の叔父、のちに大逆事件で処刑されることになる大石誠之助を、父のかわりのようにして過ごし、多くを学んだ。そんななか、彼は二十歳のとき、新宮から弟たちの住む京都に自転車で行きがてら、平民社の平民文庫を行商して歩く。その様子は「平民新聞」にもレポートされた。

 彼はまた、大石とともに平民社へ出資もしている。しかし、大石を慕い、支援を求めてやってくる人たちと彼との間には、ある距離があった。芸者遊びや酒を飲むことを好まず、釣りやスポーツや狩猟も嫌いな伊作は、ひとりで好きなことをしているのがいいので、大石との「交際は続いていたが、そこに、いくばくかの趣味の違いはあった。そのことが……きわどく、知らず知らずのうちに、その命を救ってくれていたのかもしれない」。

 西村伊作という人を私が知ったのは、彼の書いた『装飾の遠慮』という本がきっかけだった。ちょっと変わった、しかしすてきなタイトルで、大正期の衣食住について書かれてあるらしく、興味を惹かれたのだ。読んでみると、装飾というのは人が物事を工夫せず、また物を見る目がないと過剰になり、身の回りから装飾というものをそぎおとすほど、人の暮らしは豊かになる、といったようなことが書かれてある。なんと独善的な。内容よりも、書き手のヘンクツさのほうに目がいってしまう本だった。

 また彼は、子どもの服だけでなく、西洋料理の作り方や子どものしつけの方法など、生活にまつわるあらゆることを妻に指導したというが、奧さんはよくそれに付き従ったものだと感心した。

 さて、そのようにして私のなかで西村伊作という人に付箋が貼られてから知ったところでは、彼は、建築をし、絵を描き、陶芸にもとり組んでいるが、「文化学院創立者」というのがもっとも通りのよい看板とされているようだった。

 また、彼に少しでも興味を持つ人にとっては、父親からのキリスト教と、叔父・大石誠之助からの社会主義とに影響を受けつつ、そのどちらのイズムにも自分を沿わせることなく、独自のやり方で自らが良しとする「生活」と「芸術」の融合をはかろうとした人、というふうに見られていることもわかってきた。

 この評伝は、そうしたさまざまな肩書きやレッテルをはぎ取ったところから、西村伊作という人と、その生きた道すじをたどっていこうとしている。

 冒頭、「西村伊作という人物の語り口は、感傷に流されず、いつもいたって明朗である。だが、はたしてそれが、わずか七歳で両親を目の前で突然失った人物による回想として、自然なものと言えようか」とある。

 彼の明朗につきまとうある不自然さ。それは、食べるための仕事をしなくてもよく、特定の主義を持たない彼が、いったい何に拠って立っているのかが、外側からはよくわかりにくい、ということからくる不自然さなのかもしれない。

 著者の筆は、その不自然さやわかりにくさを、ゆっくりと解きほぐすようにして進む。あとがきにはこうある。

 きれいな風貌を、西村伊作は持っていた。子どものときから、そのように人にも言われて彼は育った。だが、彼みたいに、いつも何かに夢中な人間は、それを鼻にかけている余裕はない。むしろ、これは、どこか周囲に打ち解けきらない彼の態度と、表裏をなすものとなっていた。

 彼の風貌は、どこか日本人離れしていて、目についた。異人さんみたいだと、よく言われた。自分は、ふつうの日本人ではない。この観念は、彼の内部に固着してきて、ときに、行き場のない物狂おしさとなり、吹き上げてくることもあった。

 「きれいな風貌」という、見てのとおりの、動かすことのできない彼の資質をタイトルに掲げたのは、そのためではないだろうか。


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