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『亜米利加ニモ負ケズ』アーサー・ビナード(新潮文庫)

亜米利加ニモ負ケズ

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「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」。この歌をはじめて読んだとき、著者は桜ではなく、赤い薔薇を思い浮かべたのだそうだ。


それは、著者がいつか読んだ詩の記憶のためだった。雨にぬれた薔薇が登場する、アメリカの詩人が書いたその詩は、女性のエイジングを花の盛衰に重ねるという、小野小町のあの歌の歌意に通じるところがあった。


先日、水原紫苑『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』(平凡社新書)で、桜幻想、つまり日本人が桜というものに何を、どう象徴させ、あつかってきたかについて読んだばかりだったので、このエピソードから、花すなわち桜であるという日本語特有の用法ついてあらためて考えさせられる。


「どの解説書を見てみてもみんな、それを『桜の花』と言い切っている」。「書いてある」のではなく「言い切っている」、そう書くからには、著者はそこに断定的ななにかを感じたのかもしれない。ただ「花」とあるのに、そして自分はそれを薔薇と解釈したいのに、物事をはっきり言わない日本人のはずなのに、解説書はどれも寄ってたかって、花とは桜の花であるとする。


この句を読んだとき、日本語を学びはじめて間もない頃だったと思われる著者が、「花の色」と読んで、すぐさま桜を思い浮かべるほうがおかしいだろう。


一方、おおよその日本人は、短歌や俳句、ことわざや慣用句で、ただ花とあればそれは桜の花のことであると、日本人として生きていくなかで自然とおぼえてしまう。おぼえるといっては能動的すぎるかもしれない。もっと、なんとなく、そういうことになっているから、そうなんだな、というふうに、花は桜、ということが身についてしまう感じ。桜幻想のなせる業である。

毎春、桜が散り始めると、ぼくは「花吹雪」という日本語に、あらためて感じ入る。同時に、その言葉をアメリカの故郷は輸出したくもなる。たとえばpetal flurry と訳して。


こうはじまる「花吹雪」という一文では、小野小町のおかげなのか、桜吹雪などという野暮は間違っても言わない著者がいる。そして、私は花吹雪ということばをはじめてきいたような驚きをおぼえる。


それまではこのことばから、紅白の垂れ幕、遠山の金さん(あれは桜吹雪だけど)、高倉健など、情緒よりもキッチュを感じてしまうか、さもなくば、花と散るとか散華とかいった、日本の黒い歴史に舞う桜が想起されたのだったが、そんな桜への屈託はふきとばされて、花吹雪はただの花吹雪としてイメージされた。


と思いきや、話は一気に著者の故郷、アメリカはミシガンの、ヒロハハコヤナギの木へと飛ぶ。六月になると、この木の莢から、綿毛をまとった種が放たれて、その吹きだまりはまるで雪が積もったようなのだとか。その、花吹雪ならぬ種吹雪を降らせる木は、英語でcottonwood、「そのネーミングがぴったりと合う反面、どこか木のイメージを狭めてしまっている」と著者はいうが、そのズバリな感じがアメリカっぽくてよいと私には思える。でも、綿のようにふわりふわりと舞い降りるのでは、どうしたって吹雪とはいえない。それで、桜のあの潔い散りっぷりを、吹雪と呼んだことにあらためて感じ入ったのだった。


こんなふうに、アーサー・ビナードの書くものには、長年日本語だけを使って生きてきたせいであちこちについた癖みたいなものを矯正されるようなきもちよさがある。いつも同じ姿勢でいたせいでいたために歪んだからだをを整体してもらっているような。そういえば冒頭から、長年の勘違いを知らされ、おどろく。


「どんぐりころころ」の歌を聴くと、著者は〝お池〟ではなく、そのほとりに大きなアカガシワの木が立つ故郷の川を思い出す、というくだり。そこに書かれたおなじみのあの歌の歌詞から、四十余年にわたるおぼえ違いが判明する。「どんぐりころころドンブリコ お池にはまってさあたいへん」。


「ドングリコ」と歌っていたひとは多いのではないか。 それにしてもどんぐりが水に落ちるのに、「ドンブリコ」はすこし大げさな気がする。じっさいは、ぽちゃん、くらいだろうと思うが、そこが〝うた〟というものなのだろう。そう納得して、はじめて正しい歌詞で歌ってみたら、あらら、こんどは「どんぶりころころ」に。同じことをしてしまう日本人もまた、私だけではないはず。

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