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『イタリア紀行 』ゲーテ(岩波書店)

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―<<ゲーテのイタリア紀行をバッグの底に忍ばせ、気が向いた時に少しずつ読みながらイタリア各地を旅行するのもいいだろう>>(澁澤龍彦、イタリアの夢魔角川春樹事務所)―

日本語では岩波文庫、英語ではペンギンクラシックスに入っている超古典であり、イタリア旅行記のみならず旅行文学の頂点に位置する傑作だが、澁澤龍彦が言うようにイタリア旅行者必携の優良ガイドブックとして読んでみたい。

九月三日の朝三時に私はこっそりとカールスバートを抜け出した。

ゲーテは当事ワイマール公国宰相でありそのせいか実名を隠してのお忍び旅行であった。水戸黄門のようである。そして五才年齢をサバ読んでいたという(「街角ものがたり」池内紀平凡社)。父親から愛蔵のヴェニスのゴンドラの模型を手渡されて爾来、イタリアへの旅行は公務に多忙だったゲーテの積年の夢であった。ブレンタ運河からヴェニスへとゲーテの乗った船が近づいたとき、ゲーテ一行に早い足を売り込むゴンドラ船に出会い、ゲーテの脳裏に父親と模型のゴンドラ船の記憶が交錯するエピソードは、読みどころの多い本書の中でももっとも美しい箇所のひとつである。

「イタリア紀行」は時にその新古典主義美術史観、とりわけルネッサンス芸術に対する理解のなさが批判の対象となることがある。実際、ゲーテパドヴァでその「世界最古の植物園」(「イタリア庭園の旅」巌谷國士平凡社)や聖アントニウス教会に多くの注意を払いながら、この教会の目の前に当時も燦然と起立していた筈の今日では傑作と言われるドナテルロの騎馬像には全く目をくれた様子もなく、今日パドヴァを訪れる誰もが見るであろうスクロヴェーニ聖堂のジョットのフレスコ画への言及も全くない。アッシジではピエトロ・アンブロジーニやシモーネ・マルティーニの傑作フレスコがある聖フランチェスコ教会に足を踏み入れず、信じがたいことにシエナも殆ど素通りで、しかも「フィレンツェは急ぎ足で通り過ぎ」(「官能の庭」、マリオ・プラーツ、森田義之訳、ありな書房)たくらいだ。レンブラントやヴェロネーゼやグエルチーノを大いに称揚し、ラファエロ以外のルネサンス画家は眼中にないかのようである。「紀行」を読む限り旧教一般に対する特別視は感じられないのだが。

その分、憧れのローマへの到着のときには非常な熱狂を示している。この町では長い期間を過ごし特にイギリス人大使で極め付きの新古典主義者であるハミルトンとの交流は興味深い。後にその多くが大英博物館に寄贈されることになる彼のギリシャ・ローマのコレクションの素晴らしさに嘆息した。

北方人による南への憧れとして本書を読むのは容易い。しかしゲーテのイタリア観察は通念を超えた若々しいトキメキとイタリア文化への賞賛を示しており、澁澤龍彦でなくともその態度や姿勢を真似してみたくなるというものだ。

(林 茂)


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