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『Leonardo』Kemp, Martin(Oxford University Press)

Leonardo

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1月28日付けの日本経済新聞に「一度は見てみたい絵画」という読者アンケートが掲載された。全く驚くには値しないが、第1位はルーブルにある「モナリザ」で、5位がミラノのサンタ・マリア・デル・グラツィエ教会にある「最後の晩餐」と10位以内にレオナルド・ダ・ヴィンチの作品がふたつ含まれていた。それとは別にたまたま同日のイギリス新聞The Financial Timeに小説”Angel and Demons”の舞台を訪ねるガイド随行ローマ市内ツアーを紹介する記事を見つけた。何れも昨今のダン・ブラウン作品の人気にあやかったものという。

私も似たもののようで、数年前にフランス・ロワール地方の町アンボワーズにある通称<クロ・リュス>と呼ばれるレオナルド・ダ・ヴィンチ旧邸を訪れたことがある。ロンドンからほぼ二日がかりのドライブだった。フランソワI世の居城から程近いこの邸内と城との間はトンネルで結ばれており、王のお忍び訪問の抜け道として作ったという。この館でその生涯を終えることになる画家はついに一枚の絵も仕上げないのだが、王の画家を迎えた賞賛と喜びようは絶大であり(「その弁舌は当代の哲学者を凌駕する」)、老齢の画家はこのなかんずくの好色ぶりを欧州中に知られる王をその会話術だけで十分満足させたようだ。<クロ・リュス>は今や観光名所として一般公開されており、見物に連れてこられた私の子供たちはその庭園に置かれたヘリコプター、戦車、ボート、ポンプ、つり橋、マシンガンなどのレオナルド発明品の大型復元模型で実にのん気に遊んでいた。

当代きってのレオナルド研究者マーティン・ケンプ(オックスフォード大学教授)の本書は、この画家独自の万物の真理を求める思考過程とその作品群との相関関係に注目する。没後残された「モナリザ」をはじめとする絵画はサライに、鏡文字のイタリア語で書かれた手稿類はメルツィによって相続された。当のメルツィはそれらを「レオナルド絵画論」に編纂した一方で、その他大部分を各方面に売り飛ばしたため、手記の類は四散の運命を辿る。現在の推定で全体の3/4程の手稿は既に散逸。現存するウィンザー城所蔵手稿など主なものは近年レオナルド研究の成果として日本語を含む多くの言語に翻訳されている。ちなみに当時ウィンザー城には文書箱が多数未整理で残されていたが、鍵が見つからなかったため止む無く箱を壊した後、中身の正体について知った城の文書担当者はびっくり仰天したらしい(「レオナルド・ダ・ヴィンチ」シャーウィン・B・ヌーランド、岩波書店)。

本書でのケンプの主見解は、このルネサンスの偉人にとって基本的に知識は観察によって得られるということ、ラテン語やその翻訳に基づく旧弊の知識(特に新プラトン主義に対しては軽蔑さえ示した)を懐疑し実証と実験で証明される知識獲得のみを信じること、これにより習得された知識は真実であり神と真理とは自動的に一致すること、或いはあえてその相違は問わないこと、習得した知識は理論上、絵画やスケッチや発明の形で記述することが可能であること。つまりこの超人にとっては「知る」と「見る」は知的行為として直結しており、絵画を描くことは事物の認識を表現する直接的行為であること。この世界=自然の認識過程において、水、飛行、渦巻き、血液流などはレオナルドの主要主題であるが、本書はこれらの分析を通して思考過程と絵画作品の成立を解きほぐしていく。名著の誉れ高いケネス・クラーク卿の「レオナルド」(叢書ウニベルシタス、法政大学出版会)とは逆方向の「中から外へ」のアプローチであり、より明晰な現代性が感じられる論考である。レオナルドが私生児として生まれた事実や、母親への強烈な思慕と父親への強い軽蔑と憎悪、それが合いまった独特の聖母子観などを傍証するフロイト的な心理学アプローチは近年嫌気される傾向にある(このあたりの受容史についてはリチャード・ターナーの「レオナルド神話を作る」に詳しい)。

レオナルドの絵画はその主題、構図、構想など多くの点でルネサンスの通例を逸脱している。「その絵を見る恋人がまるで本物の恋人が眼前にいるように愛おしく感じ、描かれたその飼い主を飼い犬が自分の主人と認めるような絵でなければその絵は無価値である」という程の領域にあるレオナルド絵画は美しいうえに謎でもある。その謎の深さゆえに多くの人が、未完成作品が過半数を占め、かつ製作点数も極めて少ないこの画家に惹かれてしまうのだろう。本書はレオナルドの思考の過程を具体的資料(手記類)で位置づけながら、その視点を作品やデッサンに移動させて読み解くことで、この伝説に満ちた人物を解剖するかのような楽しみを与えてくれる。本文240頁程度の新書版サイズの小著だが、手稿類や作品類の図版・年表を完備しており、レオナルド研究入門書として高く評価できると思う。

(林 茂)


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