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『プレカリアート』雨宮処凛(洋泉社新書)

プレカリアート

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「貧乏階級のマリアの爽快な闘争記録---でも、勝てるのか?」

気がつくと、格差社会の本ばかり読んでいる。今回も、前回で紹介した『若者の労働と生活世界』、『新しい階級社会 新しい階級闘争』に続いて格差モノだ。

 プレカリアートとは「プレカリオ(不安定な)」と、「プロレタリアート」をあわせた造語。不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者・失業者を総称した言葉だ。

 雨宮処凛の経歴を一言で説明するのは難しい。アトピーでいじめにあい、ビジュアル系バンドの追っかけ、その後、上京して大学二浪をしてフリーター。生きづらさでリストカット。自殺未遂も。右翼団体に入って、街頭宣伝活動をしたり、北朝鮮に行ったり、イラクにいったりと、とにかくめまぐるしく動く動く。いまは「プレカリアートのマリア」である。

 リストカッター・自殺未遂経験者が作家になり、かつての同じような境遇にある当事者のためにデモをしたり、右翼作家(雨宮は元右翼だったので、話がかみ合うかとおもいきやすれ違う。それが面白い)石原慎太郎と対談するという、八面六臂の大活躍が、薄い新書にオテンコモリである。

 雨宮は、どん底から成り上がった、いわば成功者である。フリーターのような底辺層から社会的に認められた物書きになれたことを、社会学的には「モデルマイノリティ」と呼ぶ。作家というリスクの高い職業には、このようなモデルマイノリティが多い。(被差別部落出身の作家中上健次、在日・高校中退・自殺願望者ということを売りにした柳美里など多士済々だ)

 カバーの内側のコピーを読んでここまで事態は進行していたのか、と嘆息した。

 「日本のフリーターの数は400万人を超え、非正規雇用者数は1600万人を突破した。若年フリーター層の平均年収は106万円である」

 1ヶ月の平均収入は9万円以下! そんな人が400万人も日本にいる!

 第三世界発展途上国並の賃金しか受け取れないブレカリアート(フリーター、ワーキングプア派遣社員たち)を生み出す社会構造を、雨宮は、貧困ビジネス企業群に対する抗議集会でシュプレヒコールをあげながら取材していく。もともと貧乏な友人たちに囲まれ、愛されて世に出た雨宮である。低予算の取材費で貧困問題に切り込んでいく。読んでいるとき爽快感につつまれる。

 行間には、自殺したプレカリアートたちの声を聞き取ったという自負があるし、そういう悲惨な声に押しつぶされることなく、エンターテイナーとしての心意気をしっかり堅持しているために、その文章もアジテーションも受け取る側に爽快感を与えてくれる。

 いまブレカリアートになっている当事者を支援しないとたいへんなことになる、と支援関係者は言う。ネットカフェに非難しているネットカフェ難民たち、親の貯金でしのいでいるニート、ひきこもりの当事者たちが、数年後には路上に出て、正真正銘のホームレスとなる、と。

 不謹慎だが、このとき、日本にはプロレタリア革命がおきるのかもしれない、という想像力をかき立てられた。人材派遣大手グッドウィルグループの折口や、世界中にありがとうを提供したいと主張している居酒屋チェーン経営者といった資本家階級と、プレカリアート集団が正面衝突するのはいつなのだろうか。このような夢想は楽しい。

 革命のシミュレーションは楽しいが、すこし立ち止まって考えてみれば分かる。夢想や妄想では社会は変わらない。過去の革命妄想による無謀な行動によって左翼は市民社会からの信頼を失った、という歴史的な事実は重い。

 とはいえ、雨宮の問題提起は、サブカル的感性が大衆化した若者たちには届きやすい。ゴスロリという時代遅れの異形のファッションも効果的なのだろう(いつまでこのスタイルを堅持するのか気になるのだが・・・)。

 雨宮は、自分と似たような境遇にある当事者たちが、社会復帰することができないままリストカット、自殺未遂、オーバードーズの悪循環から抜けられないことを見ているはず。生きづらい者たちのなかの、真の弱者たちは、デモをしない、できない。生活苦の人間にはデモをするだけの余裕はない。他者を救うための言葉と時間と体力はないのである。ほんの一握りの人間が抵抗する。抵抗できることを知った者たちは、いつか経済的に自立して、かつての弱者仲間とのつきあいは疎遠になっていく。弱者同士の連帯は困難なのだ。連帯にはコストがかかる。そのコストを支払うことができない者たちは闘争の現場には現れない。自尊心をはぎ取られ、社会から阻害されたために身動きがとれなかった者たちにとって雨宮はアイドルである。

 プレカリアートの悲惨な未来像を変えるためには、雨宮を乗り越える社会運動の担い手が必要なのだろう。ゴスロリという異形のファッションは奇抜だけど、普通の人々=大衆の支持は得られまい。

 貧困者を救うことで健全に利益を出せるソーシャルベンチャー的な経済の仕組み必要だろうし、それらの活動家たちは本書のなかで効果的に紹介されている。貧困者を搾取する貧困ビジネスと対峙する人がいることに安心する。焼け石に水だ、と冷めた言葉がのどから出そうになる。燃え尽きないでほしい、と思う。

 雨宮は表現者である。自分の感性に従って、動き、語り、デモをする。その後ろにいる当事者たちは、静かに絶望している。

 流れゆく者は、立ち止まることしかできない者に何ができるのか。

以下は、蛇足である。 

 

同書の中に収載された座談会に読み応えのある場面があった。

---就職活動も結婚も努力が必要というお話をきいていて気になったのですが、女性フリーターの結婚事情というのは、どのようなものですか?

雨宮:私の知る限りでは、正社員の争奪戦ですね。彼女たちの主婦願望はものすごく強いんです。男性以上に将来の見通しがつかないですから、自分と同じような非正規社員の男性は選ばないので、結果的に高収入の男性の奪い合いになってしまうんです。

---高収入の正社員を獲得できるのは、どんな女性が多いのでしょうか。

雨宮:一言で言うと、もの凄く顔面偏差値の高い女性ですね。それ以外の人たちにとっては、非常に高い競争率になってしまいます。

---顔面偏差値の高いというのはつまり、美人の女性という意味ですね(笑)。赤木さんの言われたような、結婚にかんする男女平等が実現した世の中になったとしても、男性フリーターは顔の選別という激戦を勝ち残らないと幸せになれないわけですね。

赤木:それは厳しいな(笑)

 格差拡大のなかで、貧困から脱出しようする女性のなかでも、美人女性は、高収入男性との結婚の可能性がある、というのだ。そこまで外見資本主義が進行しているのである。モデルやレースクィーン、女優のような外見肉体労働者たちが、ベンチャー企業の社長などと結婚するケースがそれに近いといったらわかりやすいだろうか。

 十代のとき、重度のアトピーのために外見にハンディキャップをもっていた雨宮さんはこういう細かい点に目が届く。格差社会を学問的に研究している専門家とちがう点だろう。不安定な労働者のなかでも、美人はその境遇から脱出できる可能性が高いという指摘は重い。普通の外見をした、普通の能力をもった、普通の人間こそが、ブレカリアートになると、出口がみえず、絶望が深いのである。

 石原慎太郎雨宮処凛の対談を読んで、大衆心理をつかむ石原の能力は卓越している、と改めて思った。本音を言うことに躊躇がないが、相手の話にあわせる柔軟性もある。

 雨宮さんが、いじめ体験を語り出すと「あなた、何しに来たの!? 愚痴を言いに来たの? 僕に何をしに来たの? 何を聞きたいの?」と切り返す。格差問題のデリケートな議論を仕掛けようとしても、とりあわずに次のようにうまくし立てる。

「格差もいじめもなくならない」「ワーキングプアという人たちは仕事を変えればいいじゃない」「チベットとか、チェチェンとか、国民がシベリアに移動させられている国と違って、そういう悲劇に比べたら、ささやかなもんじゃないですか」「日本の平均所得だって、他の国に比べたら高いしさ。隣の中国だって、あそこの格差と比べたら、当人の意志努力で超えられるものってたくさんあると思いますよ」

 石原の言うことにも一理はある。

 このような格差論争そのものが、橋本健二著「新たしい格差社会 新しい階級闘争」(光文社)でいうところの、階級闘争なのである。石原は、自分自身がアンダークラスにいるという階級意識を自覚していない大衆と、アンダークラスを搾取することでビジネスをしている富裕層に向かって語りかける。雨宮は、プレカリアートというまだ目覚めていない小さな市場に向かって語っていく。そのすれ違いが格差として浮かびあがる対談に仕上がっている。

 足下にある危機は共有されることはない。が、連帯はできる。


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