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『海を生きる技術と知識の民族誌-マダガスカル漁撈社会の生態人類学』飯田卓(世界思想社)

海を生きる技術と知識の民族誌-マダガスカル漁撈社会の生態人類学

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 本書最後の第6章には、「研究者に何ができるか」という見出しがある。本書を通読すれば、著者飯田卓がつねに「研究者に何ができるか」を自問自答しながらフィールドワークをおこなっている様子がよくわかる。本書の「目次」は、章と節のタイトルまでしか書かれていないが、項まで書かれていると、本書の全体像と著書の意図したことが、より具にわかったことだろう。


 著者の姿勢は、「序章 漁民文化の潜在力」のつぎの文章からもわかる。「私は、フィールドの人たちからローカルな現実を学ぶと同時に、ローカルな生活感覚からかけはなれたグローバル化状況をも認識していかなくてはなるまい。現在のように専門化していく学術環境のなかで、それは容易でないだろう。しかし本書では、それを試みようと思う」。そのような学ぶ姿勢をもつ著者だから、「終章 グローバル化のなかの自然」は、「われわれ日本人は、経験に裏打ちされた知識を回復するうえで、ヴェズの人びとに多くの学ぶことができるはずである」という文章で締め括っている。


 著者は、ヴェズとよばれる「マダガスカルの漁民たちが海と交際する作法にとくに注目」している。著者が、「海を人格化し、人びとが海と交際しているという表現を」使う理由は、つぎのように説明されている。「じっさい、マダガスカルの漁民にとって、海はたんなる自然環境でも労働の場でもない。それは同時に、行動を選択するうえでの助言者であり、各人のプライドを維持してくれる評定者であり、隣人たちと経験を共有するうえでの仲介者である。つまり海は、個性や社会性の源泉という意味でも、人びとの生活に深く関わっている」。そして、著者の最大の関心事は、「さまざまなタイプのコミュニケーションが世界規模で拡大していくなかで、あいかわらず海と向き合いつづけている人たちにどのような可能性や潜在力が残されているのか。こうした問いを軸に議論を展開するなかで、メディアに媒介されない自然に関わる人びとにもう一度目を向けなおす」ことである。


 このような姿勢、関心事・注目点のもと、著者は具体的に2つの本書の目的をあげている。「海が水産資源をはぐくむことは、よく知られているし、理解もしやすい。これに対して、海が(正確には、海とつき合いつづけることが)無形資本をはぐくみ、漁民の自活力を保障するかどうかは、それほど自明でない。このことを明確に示すことが、本書の第一の目的である」。第2の目的は、「グローバル化状況におけるローカル社会の変化を記述することが、さしあたっては重要」であり、「無形資本とはいっけん関係なくみえる事項も含めて、海と人との関わりを広くとらえること」である。


 ヴェズとよばれる人びとは、7世紀にインドネシアカリマンタン島を離れ、海洋民バジャウの助けを借りて、マダガスカル島まで長距離航海をおこない定住した。ヴェズということばは、バジャウの訛化だとされている。たしかに、本書で描かれている舟や航海術、漁法は、東南アジアのものと共通している。しかし、人の顔はすこし違うようにも見える。ヴェズとは、出自に関係なく、漁撈など、海で生活するために必要なふるまいを身につけていることだという。「泳ぐこと、カヌーを製作し、操縦すること、航海のための日和を見ること、魚を捕獲し、食べ、売ること、そうしたことをうまくこなすことで、人はヴェズになることができる」。このアイデンティティのあり方は、海洋民や遊牧民など、流動性の激しい人びとと共通している。先天的なものではなく、「積極的に学ばなければならない」ものである。したがって、定着農耕民社会のように民族は固定したものではなく、しばしば発生し、消滅する。


 このように「海を隣人とみなし、海の表情を読み解き、海のポテンシャルを知悉して、次つぎと漁法を編みだす漁民たち」は、漁業資源を求めるグローバル化のなかで、サメ刺網漁、ナマコ・イセエビ潜水漁などで潤ってきた。これまで、かれらは長距離の移住や農業への転換などをほとんど経験せずに、外部世界からの影響に対応してきた。そこには、かれらの優れた技術と豊かな漁場があった。そして、漁業規制などもあまりなかった。それが、いま、漁業資源の枯渇や政府による介入の問題が発生するようになった。著者が、「研究者に何ができるか」と問いながら、調査をおこなったのも、もはやかれらだけで対処できる状況ではなくなってきているからである。


 「研究者に何ができるか」の項では、著者はつぎのように結んでいる。「現代の資源管理論では、漁民と外部者の対話にもとづく共同管理の枠組みが主流であり、さらなる対話が必要だという私の主張に一致しているようにみえるからである。しかし、実際に私が主張したいのは、共同管理が想定するような対話を実現する前に、はるかに困難な対話が必要だということである。共同管理において対話の相手となるのは、資源管理の専門家などであるが、その前段階の対話では、漁民の生活や文化に精通した者が積極的に対話をリードしなければならない。私自身が適格かどうかは別として、そうした前段階での対話においてこそ、人類学者が本領を発揮できるように思う」。


 そして、「終章」では、つぎのように読者に問いかけている。「文化人類学にせよ生態人類学にせよ、地理的に遠い場所での調査にもとづくことが多いためか、その研究成果は、日本の読者にあまり関係ないと思われがちである。しかし、ヴェズ漁民の社会からも、日本社会に住むわれわれは多くのことを学べると私は思う。ヴェズの人びとは、周囲の人びとや自然との具体的な関わりを保ちながら、世の中のあらゆる動きに対処しようとしてきた。いっぽう日本社会では、さまざまなメディアをとおして情報を取得できるかわり、隣人や自然との関わりが一貫して衰退してきている。このように、ヴェズ漁民社会と日本社会では状況が著しく異なっているが、だからといって問題を共有できないのなら、われわれは、個人化が進む社会状況のなかで孤立していかざるをえないだろう。そうなるよりむしろ、取り組むべき問題の共通性を重視して、われわれは連携していくべきではないだろうか」。


 グローバル化が進む今日、地球上のどこかで起こったことが、われわれの生活に直結する可能性がある。他者の問題を、自分にもつながる問題ととらえることによって、グローバル社会の問題は解決へと向かうのかもしれない。しかし、そのつながりは、普通見えない。見えないつながりを見えるようにすることが、「研究者ができる」ことではないか、と本書を読んで思った。


 蛇足。「序章」の最初のパラグラフを読んで、読むのをやめようかと思った。「2001年12月24日。・・・クリスマスの午前中をすごした」とあった。日本人の多くは、クリスマス・イヴをクリスマスと勘違いしているかのように「祝う」。たんなる誤植かもしれないが、このような記述があると、読者の信頼をまったくなくしてしまう。文章を書く者として、他人事ではない。わたしも、なんどか編集者に救われたことがある。気をつけよう。

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