『日本浄土』藤原新也(東京書籍)
「日本の滅び行く風景を、しずかに切り取った」
『東京漂流』で衝撃を受けてから、藤原新也さんの著作を読み継いできました。私のように藤原さんの読書体験をもった共有できる人が多いことを嬉しく思います。(ちなみに拙著『顔面漂流記』は、『東京漂流』をヒントにして名付けたのです)
最新刊『日本浄土』の刊行は藤原さんのブログで知りました。もはや書評雑誌や新聞の書評欄を読まなくても、好きな作家の最新刊の情報を知ることができます。情報化社会は書との出会いを変えていきます。
初期の著作なのかで、情報技術への嫌悪をあらわにしていた藤原さんも、時代と人の変化を知るために、ホームページをもちブログをしています。いまは消滅した、詐欺的な自費出版ビジネスの実態をブログで公開し、これがきっかけとなって被害者が声を出して、この出版社が消えるきっかけになったことを覚えている人もいるのではないでしょうか。
日本浄土。
日本には浄土といえる美しい風景と人がいる。それを目撃して、衆生に伝える役目の人がいる。それが藤原さん。
今回の旅の現場は日本。とくに西日本でした。
旅のスタイルは、バブル経済はなやかな『東京漂流』の時代とは大きく変わっています。情報化社会が浸透し、地方の産業が衰退して、「地方の死」を見つめる旅。
地方の独自性は、画一均一な情報環境のなかでなくなっている。自然破壊をしてきた土木産業さえも、地方では立ちゆかなくなり、人も仕事もない。
そんな日本の風景の中で、藤原さんは過去をたどりながら旅をしていきます。
父が経営していた九州門司の旅館で働いていた美しい仲居さんが死んだという話を耳にする。その人は旅の男と駆け落ち。その後の消息は分からなかった。ひとりで門司を歩いて、幼少期の思い出をたどりながら、いまの門司を写真で切り取っていく。。
私も門司は何度か行ったことがあります。異国風情のある門司港から、関門海峡を越えて下関に移ると、商店街が死にかけており、一部の店舗だけが繁盛し、それ以外の風景は停止しているという無惨な風景がありました。
故郷である門司を起点に、長崎、山口のよき時代を知る、藤原さんは愛情をもって地方を描いていきます。
島原、天草、門司港、柳井(山口県)、祝島(瀬戸内海)、尾道、能登、そして藤原さんの住まわれている房総。
本書のなかには、名所旧跡はなく、濃密な人との出会いもありません。
旅の中で無名の人になった藤原さんが、無名の人と土地を通り過ぎながら、いまの日本を感じるという、ちいさな営み。
東京などの大都市の喧噪と、ネットでの情報交換という騒々しい世界に私たちは生きている。たとえ地方に住んでいても、メディアは騒々しく、私たちの心のなかに、無用な情報と欲望を届けてきます。
そんな喧噪から離れてみれば、これほどの清逸な時間と空間がある。
藤原さんは怒れる人。『東京漂流』とは別の形で怒っているのか。達観しているのか。それを確かめるために再読をしたくなる。
静かなる書です。