『アーティスト症候群』大野左紀子(明治書院)
「アーティストをやめた人間によるアーティスト論のおもしろさ」
約20年にわたってアーティスト活動をして、5年前にアーティストを廃業した、元アーティストによる「アーティスト論」である。
カタカナ職業の現実を知りたいという人は本書を読むとよい。
カタカナ職業。
スタイリスト、フォトグラファー、ライター、デザイナー、クライマー、アクター、アクトレス・・・なんでもよい。
その職業、生き方を指し示すイメージがアート的であればなんでもよい。
普通でない何かをもった人間にしたできない仕事があり、それに取り組む資格が自分にはある、と信じている、信じたい人、そんな人は、この本を読んで欲しい。
アーティストは食えないのが常識。それでも食えている人はいる。そのような人は破天荒な戦略と幸運、そしてバイタリティによって奇跡的に食えている。たとえば村上隆である。村上隆はひとりで十分である。すべてのアーティストが村上隆になることはできないし、その必要もないし、そんなオンリーワンの芸術をもとめるニーズは世界広しといえどもきわめて小さいのだ。したがって、彼が食えている方法論は、ほかのアーティストには使えない。
アート業界に詳しくない人は、食えるアートを目指す。食えないことに気づくと、評価されるアートを目指す。評価されないことに気づくと孤高のアーティストを目指す。際限のない自己肥大したアーティスト志向が蔓延している。
それは人生をかける価値があるのだろうか? 深く考えるための情報が少ない。その欠落を本書は埋めている。アートのための学校やギャラリーは数多くあるが、そのアーティストたる存在の実態を私たちは知らない。その実態を、引退した元アーティストが教えてくれた。
ただし、大野はアートで食えていたわけではない。食っていく気もなかった。
「だいたい年に1回か2回個展をやって売れるのはせいぜい1個か2個(数万から十数万円)だから、それで生計を立てるという考えもなかった。だから私は美術を辞めることができたのだった」
この感覚が、アーティストとは何かを語るための適度な距離感を用意したのではないかとおもった。
「作品が唯一の収入源でそれで生計を支えていたら、もうやめたいな、と思っても簡単にやめられなかっただろう。プロの歌手が、簡単に引退できないのと同じように。そういう意味で、プロとは言えなかった」
ちまたにはアーティストとしての知識と訓練を受けることなく、またアーティストたるべく厳しい鍛錬をくぐりぬける気がないのに、アーティストと自称する者がいる。こうしたアーティストもどきたちを、大野は批評していく。が、私は、その現代アート批評よりも、大野の内面の変化が面白かった。大野のなかにあるアーティストというイメージが成長し、最後は解体していく過程を楽しみながら読んだ。
本書を読む前は、ひとりの女性がアーティストでありつづけることに挫折した体験をベースにして書かれた作品ではないかと思っていた。読み進めるうちに、窮屈なアート業界からの卒業を果たしたひとりのアーティストの貴重な記録だと分かった。
アーティストという「特別な人間」を目指した人が、その過程で物事を深く洞察する創造力を身につけた。売れなかった。大成功はしなかった。が、人間として成長した。
女性「アーティスト」を廃業した後、残ったのは、「女」と「性」だったという気づきは、「生きる」ということそのものががアートなのだろう、と平凡ではあるが示唆的であった。
「結局、言葉しかないのかなと思った。アート作品をつくらないのだったら自分には言葉しか残らない」
そして大野は、「誰に何も頼まれもしないのに何かを書き出してしまう」
ツールはブログだった。
私が読んだのは3刷。売れている。大野は、もやもやとした何かを伝えることに成功している。
書かずにはいられないことがあって書き出してしまい書き終えたこと。アートという存在を疑うための情報をアートを知らぬ他人に提供したこと。この2つに成功しているのだから、大野はアーティストである。
アーティストを廃業したことで、アーティストとして再生したということか。ややこしい女性である。