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『ブログ論壇の誕生』佐々木俊尚(文藝春秋)

ブログ論壇の誕生

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「新しい論壇は、世代間対立の戦場になった」

 ウエブの行方をウォッチングしているジャーナリスト、佐々木俊尚さんが、インターネットの世界に日々生成されている「ブログ論壇」について分析した一冊。いま日本語のブログ執筆者は、英語圏のそれを超えている。それほど日本人はブログ好きな人間が多いのである。公私ともに、日々、複数のブログを更新している者として見逃せない内容だ。

 論壇とは何だろうか。一部の知識人が、老舗出版社が発行する一部の総合雑誌などにその意見を評論などの形で寄稿して生成させる言論の場のことだろう。このような言論空間には一般人は立ち寄ることができなかった。論壇を仕切る編集者もまた知識人でなければならず、一般人とは異なる物言いが期待されていた。

 そうした閉鎖的な空間は、インターネットの普及によってその存在感がいっそう小さくなっている。

 「ブログ論壇」が登場したからである。佐々木はこう説明している。

 

「インターネットの世界にはいまや巨大な論壇が出現しようとしている。このブログ論壇の特徴は次のようなものだ---発言のほとんどはペンネームで行われ、したがってその社会的地位はほとんど問題にされない。そしてマスメディアがタブー視してきた社会問題に関しても積極的な言論活動が行われている。その発言が無視されることはあって、発言内容を理由にネット空間から排除されることはない。その中心にはブログがあり、2ちゃんねるがあり、ソーシャルブックマークがある」

 ネットで展開された数々の「有名な論争」が紹介されている。「括弧」をつけたのは、一般的---マスメディアで紹介されるようなニュースになるような事柄、という意味---にはまったく知られていない論争であっても、ブログで激しい論争があった場合、ネットの住人にとってはそれは有名ということになるからだ。また、ネットでの論争、紛争がマスメディアに報じられて、その論争が世に広く知られて、論争が激化することもある。ブログ論壇とマスメディアのニュースが互いに影響を与えるようになっている。

 本書のなかで、なるほど、と思ったのは、ブログ論壇が「激烈な世代間対立」空間になってるという指摘である。パソコンやケータイをつかってブログを書くブロガーたちのおおくは就職氷河期で苦しんだロストジェネレーションという20代後半から30材前半の若者たち。社会の権威(エスタブリッシュメント)がクチにする「若者にはやる気がない」「がまんが足りない」という年寄りの説教型言説への激烈な反発に、ブログや掲示板が使われている。マスメディアが生成した論壇では少ししか紹介されることなかった、若者たちの老人団塊世代への怨嗟の声がブログ論壇を活性化させているのだ。

 ブログ論壇のなかには秀逸な意見が確かにある。しかし、それが日本社会の現実を変えるような言論には成長しているとはいえないだろう。その理由を、佐々木さんはこう分析している。

第1に、日本でネット論壇を担うロストジェネレーションは、日本の戦後社会の喪失期に育った被害世代であり、弱者階層であるという認識が蔓延しているため「社会を担っていく」という自信がない。

第2に、問題についてつねに議論し、解決策を考えていくという討議(ディベート)の文化が日本には欠落しているということ。

第3に、理念としての「社会」と、リアルな「世間」との乖離。いくら討議を行い、理念を語ったとしても、現実の社会は説明のできない「世間」という同調圧力に覆われていて、理念も道理も通らない。

 要するに、被害者意識ばかりで自信喪失した若者たちがもっと前向きに頑張れば、ブログでの論議が現実社会への影響力をもつようになるだろう、ということである。

 

 この分析にはおおむね同意できるものの、もう少し若者に期待をしても良いのではないかと思う。いまのネット環境があれば、ブログ論壇を生成することができる。その論壇をよりよいものに昇華していこうという人間集団もまたつながっている。そこから、現実社会に影響力をもち、日本社会の閉塞感を変えていこうという動きはすでにいくつもある。

 こうしてブログを書いている間にも、本書の内容は古くなっていく。どこかに新しいブログや掲示板が開設され、匿名の人間による対立、エスタブリッシュメントをターゲットにした批判エントリーが書かれているのだろう。

 それはそれとして、批判的なエントリーやコメントの執筆をエネルギッシュに継続したとして、それを読んで同調する人間もまた匿名存在であるとき、書き手と読み手は、もの悲しくなっていないのかな、というのが気になる。空虚にむかって、言葉をつむいでいる心象とはどういうものだろうか。

 おおくのブログは継続されることなく消滅していく。人生において論争すべきことなどそれほどおおくはない。だからこそ、ほとんどのブログは極私的な日記やつぶやきを書き留めるだけのものになっている。それが日本的なブログの王道だ。続けられたとしても、できのわるい私小説か、ひたすらにポジティブな言説を紡ぎ続ける自己啓発ブログになっているものが目立つ。ひっそりとだが、良質な文章を書き続けているブロガーもいるのだが。

 うつ的なブログも、とにかくポジティブなブログも、どちらももの悲しい。

 私は、自己主張をしないという生活態度を守り、日本人同士でも本音を語らないという習慣のなかにあった人たちが、実は語りたい、書きたい、という欲望を噴出している様子そのものがおもしろい。ブロゴスフェアのなかで、必死になって空気を読んで文章を書く営みは、ある種の文芸の域に達していると思う。

 いまは、ロストジェネレーションたちの恨み節が流行している。それがうけることが分かっているからだ。次は人間を幸福にするための歌が流行するかもしれない。いずれの言説も、読み手がいれば流行し、いなくなれば廃れる。

 このままブログが増殖し続けたとして、それを読む人が増えるのだろうかという疑問もある。すでにブログや掲示板はひとりの人間が読める情報量をはるかに超えている。

 ネットを調査のためのデータベースとして使っている人が大半になっているいま、ブログ発の情報はノイズが多いため、ブログを検索対象から外す検索サービスもある。こうなってくると、懸命になって、良質のブログ関連コンテンツをアップしても、現実社会からは認識されないということもおきるはずだ。

 ブログ論壇の荒廃、またはカオス状態になった過剰な情報によって、一覧性の高い紙の論壇がさらに必要とされている、と言えるのかもしれない。


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