『評論家入門』小谷野敦(平凡社新書)
「好きなことを書いて稼ぐ、という職業の現実」
どうしたら自分の書いた原稿を商業出版できるのか?
そのために、どうしたら優秀な編集者と会えるのか?
どうしたら文筆だけで食べていけるのか?
どうしたら知識人として生きることができるのか?
こういう質問を受けることがあります。メディアの中心都市東京から離れて浜松に移住しても、です。いや、むしろ地方のほうが、この手の質問を受けているような気がします。東海地方には力のある出版ビジネスがありません。地方にいると東京のメディア産業の実態について分からないため、本を出せば生活できる、文化人になれる、という幻想が育ってしまうのでしょう。だから、地方から上京する若者が後を絶たないわけですが。
つい最近、絶版になってしまった拙著『文筆生活の現場』(中公新書ラクレ)で、ノンフィクションライターたちの生活の現実をつづっています。この『文筆生活の現場』では、私を含む執筆者全員が、(多少の表現は異なれど)「生活の安定を求めるならば文筆業はやめておけ」ということを書いています。
理由はかんたん。書籍の印税だけで食べていけない、ということは出版業界の常識だからです。
印税は10%という商慣習がありますから、1000円の書籍を1冊売ったとしても、著者にはいる金額は100円。100万円の収入を得ようとするならば、1万部の著作を出す必要があります。年収500万円の生活をしたいのならば、年間5万部以上の売り上げがたつ著作を出せばよろしい。きわめて簡単なビジネスモデルです。しかし、そんな書き手は少ないのです。書籍の多くは(90%以上でしょうか)初版だけで絶版となります。無名の新人の書き手に初版1万部を発行しようという英断をするような編集者はまずいません(もちろんどんな世界にも例外はありますが、例外を一般化するのは危険です)。本を出したらベストセラーになる、と妄想するのは勝手ですが、それは、ろくに練習もしないで、野球中継を見ているだけの若者が、メジャーリーグで大活躍できる、と確信することと同じです。野球ではそんな妄想をもつ人はいないでしょう。スポーツのビジネスモデルが見えているからです。しかし文筆業で生きていこうという人のなかには、書けばヒットして食っていける、という幻想をもっている人はまだいます。それは出版業界のなかでのリアルなお金の動きが外からわかりにくいからです。
こういうことを電話でいくらはなしてもなかなかわかってもらえません。出版業界の現実を、小田光雄さんの大人気連載「出版状況クロニクル」のデータをつかって説明しても「石井さんの発想はネガティブすぎる。だからあなたの本は売れない」と言われたりします。まぁ、たしかに私の発想はネガティブかもしれません、本も売れていません、が、現実は現実,事実は事実。ネガとかポジとか、そういう問題ではありません。
また前置きが長くなってしまいました。
そういうわけで、出版業界のリアルな現実を知るために『評論家入門』をオススメします。タイトルは評論家入門ですが、中身は評論家というジャンルに限定されていません。文筆だけで1人で生きていこうという人への処世術を緻密に記述されています。著者の小谷野敦さんは、評論家として多数の著作をもつ大ベテラン。
私の場合、とりあえず注目される本が出せたのは、最初の本を出してから7年後のことだった。それでようやく気づいたのだが、本というのは売れず、話題にならないのが、普通なのである。
一般の人は、売れている本を見ているから、そこを勘違いする。もちろん、雑誌に論文か評論を一本出しても、何も起こらない。
こういうことを文筆業にあこがれている人は知らない。本当に何も起きません。何かが起きることはあるでしょう。腕利き編集者が会いに来る、とか。それはそれで僥倖ではあるが、その編集者はいつも人と会っている。100人の有望な書き手候補のうちモノになるのは1人いればいい、という感覚で仕事をしている。だからそんな幸運な出会いがあっても舞い上がってはいけない。
小谷野氏の『もてない男』は10万部売れた大ヒットである。印税は約700万円。当時の小谷野氏は36歳。
「エリートサラリーマンならこの倍以上の年収がある。しかも、これが毎年続くわけではない。どのみちこれではマンションも買えない」
同感です。誰もがうらやむ社会的な成功した証としての報酬はいくらぐらいが妥当なのか。人それぞれ答えは違うでしょうが、私は「新築で家が買える」くらいの報酬、としたい。そう考えると、新書10万部のヒットで700万円。小さい成功なのです。土建業の親方ならば、1週間で動かす現金であり、月収だったりします。顧客が10万人もいて、実入りはたった700万円ですか? というものの見方もあります。
そのようなビジネスモデルのなかで、成功する(家を買える。結婚して家族を養える。老後のための貯金ができる。親戚の冠婚葬祭にきっちりでる。親兄弟からの借金の申し込みに対応する。子供は全員大学に行かせる)ことができる文筆業者はきわめて少数である。
そんな出版業界の常識を知った上で、文筆業という不安定ではありますが、愉しい仕事をしたい、という人に『評論家入門』を読んで欲しい。
小谷野氏は、売れる文書を書け、と励まします。しかし、売れるとはどういうことなのか。ひとりひとりの書き手が考えるべきでしょう。
そしてこの「売れる」というのは、「儲かる」ということではない。
含蓄があります。文筆業を目指す人は、「売れる」文章を書くこと。「儲かる」ならば、文筆の神に祝福された、ということです。