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『定年からの旅行術』加藤仁(講談社)

定年からの旅行術

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老いた人の旅は、過ぎゆく時間を抱きしめながら」

 先日、会社の仕事で「名古屋モーターショー」に行ってきました。車中泊仕様にカスタマイズした車両を2台展示。1日中、車両の横に立ってお客さんの様子をみていますと、小さなお子さんのいるファミリー層にまじって、60歳前後とおぼしきご夫婦が真剣に車中泊車をみてくれています。
「これいくらかな?」

 価格を申し上げると「安いね」とおっしゃいます。

 定年退職した人たちのなかで、静かな車中泊ブームが続いている。たしかな手応えを感じたモーターショーでした。

 車中泊は数ある旅のひとつ。旅のカタチは多様化しています。会社が取り扱っている商材は車ですが、私はこれを問題解決型の新しいコンセプトの車にしていきたいと思っています。定年退職した人にとって、自由になった時間で、どんな旅をするのか。しがらみがなくなった人たちの気持ちを知りたい。

 本書「定年からの旅行術」は、コンパクトな新書の形式ですが、情報の密度が濃い。定年をテーマに息長く取材活動を続けるノンフィクション作家、加藤仁さんは、取材メモを引っ張り出して、これまで会ってきた高齢者の旅と、その心象風景を描いてくれました。

 高齢者にとって旅をためらわせる理由は、健康とお金。健康な心身と、余裕のある資金がないと、快適な旅行はできない、と思うのが普通でしょう。

 しかし、加藤さんが取材で出会った人たちに、すべてが完全なコンディションで旅をした人はひとりもいませんでした。

 56歳で愛媛県警を早期退職した和田憲二郎さん(取材当時79歳)は、病身の妻への「女房孝行」のために車中泊の旅をはじめます。退職して3年目には、ワゴン車を購入。キャンピングカーに改造。全国を旅します。自分自身の身体の変調に気づいたとき、「本物のキャンピングカーに乗って旅をしたい」との思いがよぎり、キャンピングカーを購入。さらに夫婦二人旅は続きます。妻は骨粗鬆症で入院。自分も前立腺ガンで入院。もはやこれまでか、と思ったときも、車中泊の旅に出て、元気を回復していきます。

車椅子をキャンピングカーに乗せて旅を続ける夫婦の姿をみた、同じく団塊の世代の旅仲間が励まされていく。旅は、老いと病をふりはらう営みとしてありました。

 激務のなかでワークライフバランスを実践している著名な経営者がいます。彼は、妻が精神病、息子がダウン症長時間労働をするわけにいかなかった。仕事と家庭の両立をしながら社長に上り詰めました。彼はテレビ番組の取材でこう言っています。。

「仕事はいつかなくなる。なくなったとき、家族と過ごす時間が待っている。それが幸福だ。そのためには自分の健康、時間を大切にする。そういう社員が増えないと会社はよくならない」

 和田さんという人の女房孝行の旅は、まさにこれです。仕事がなくなったとき人は何をするのか。

 家族と旅の時間を過ごす。

 現代は未婚・非婚という「おひとり様」の時代ですから、独り身の旅についてのすてきなエピソードも紹介されています。

 愛媛の片田舎でみかん畑で働く山崎トミコさん(取材当時89歳)。ずっと助産師として働き、気がつくと独身のまま57歳になっていました。友人と初めての海外旅行でハワイに行ったときに旅の楽しさに開眼。60歳から89歳までに、116カ国の世界旅行を達成! トミコさんに世話になった人が、毎日野菜や魚を届けてくれます。食費は肉を買うぐらい。交通事故にあったときに人工骨を埋め込んだ。これが空港のチェックでひっかかるようになってしまい、それがいやで海外旅行をやめたと言います。海外旅行はいけなくなっても、部屋には自分で撮影したたくさんの旅行ビデオテープ。。これを見ながら、「もう、なんの悔いもないのよ」と取材者の加藤さんに語るトミコさん。すてきなおばあちゃんです。

 加藤さんは40名以上の「旅行名人」たちと、30年以上の取材経験から書き起こしています。30年以上の取材の蓄積というのもすごい。「定年」という人生最大の事件の一つを定点観測してきた加藤さんにしかできない仕事でしょう。

 老いてからの旅は、青春の旅とは違います。青春の旅は、時間は無限、健康はずっと続く、というのが前提です。老いてからの旅は、残り少ない時間を惜しんでいるだけにドラマチック。旅を続ける動機もはっきりしているように見えます。

若いときにありがちな自分探しではなく、今、自由に生きていきることをひとつひとつ確かめる、過ぎゆく時間を愛おしく抱きしめている崇高さを感じます。

 私は44歳。いまから20年後に旅をする計画を練っておこうか。倹約して両校資金を貯めておこうか。こう考えたときから旅は始まっています。この本を読むことが旅なのです。

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