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『読者はどこにいるのか――書物の中の私たち』石原千秋(河出書房新社)

読者はどこにいるのか――書物の中の私たち

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評者:高野優(フランス語翻訳家)


今回は書評をお届けします。フランス語翻訳家の高野優さんが、創刊ラインナップ『読者はどこにいるのか』について書いてくださいました。高野さんは、ヴェルヌ『八十日間世界一周』やファンタジー『アモス・ダラゴン』シリーズから、『モラル・ハラスメント』『自己評価の心理学』といった心理学読み物、『カルロス・ゴ-ン 経営を語る』まで、幅広いジャンルをこなす人気翻訳家。それこそ「読者はどこにいるのか」という問題意識から無縁ではいられない翻訳家という立場から、この本をどのように読まれたのでしょうか。お楽しみください。

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本書は「読者および読者の仕方」について書かれた本である。その中心にあるものは、「読者はもっと自由に本を読んだほうがいい」ということだと思われる。少なくとも、僕はそう読んだ。したがって、おもにその観点からこの本について話したいと思うのだが、最初に断っておくと、僕は別に本書の内容を詳しく解説しようと思っているわけではない。この書評はもっと個人的なもの――翻訳者という「原書を読み、その内容を読者に伝える」という特殊な立場にある人間が、本書を読んで、さまざまな刺激を受けながら考えたことをまとめた、かなり個人的な読書日記のようなものである。

本書ではまず最初の2章を使って、文学研究の中心が作家論から作品論、テクスト論に推移していった経過をたどり、テクスト論の時代の到来とともに「作者から自立した読者が誕生した」と説く。このあたりのことはこの「書評空間」の読者諸氏のほうが僕よりもはるかに知っているはずなので、詳しい説明は省くが、要するに、「読者が読書を通じて作者の真意を探る読み方」から「読者がテクストと交流しながらそこに自分なりの新しい世界を発見する読み方」ができるようになったということだろう。すなわち、そこにいたって初めて、読者は「作者の真意」という幻想からはずれて、自由に読書ができるようになったのである。

【実際に見た映画より面白い?】

では、「自由に読む」というのはどういうことか? 個人的な話をする。

昔、唐十郎率いる劇団状況劇場の怪優大久保鷹とお茶を飲んだ時に、「唐十郎が映画を見て帰ってくると、素晴らしい映画だったと言って興奮して内容を話し、それを聞いて劇団員が実際に見にいくと、つまらない映画だったということが多い」という話を聞いたことがある。唐は実際の映画の内容と自分が映画を見ながら想像した内容を一緒くたにして話すので――なにしろ、あの想像力である――劇団員には非常に面白い映画に思えてしまうのだ(このエピソードは沢木耕太郎の『若き実力者たち』(文春文庫)にも載っている。大久保鷹と会った時の記憶と沢木耕太郎の本を読んだ時の記憶が頭のなかで結びついてしまったのか、あるいはそれほど有名なエピソードなのか……)。

それはともかく、唐十郎の映画の見方と同じような読書ができるなら、これほど自由な読み方はない。しかし、本はそんなに自由に読んでもかまわないものなのだろうか? 僕はフランス語の翻訳教室を開いているが、教室でよくこの唐十郎のエピソードを引き合いに出す。そして、「普通の読者としてなら、自分の想像を自由に交えたこういった読み方は素晴らしいと思います。それは読書を豊かにしてくれます。しかし、翻訳者としては自由な想像は抑えて、もっと作品に沿って読む必要があります」と話をする。というのも、翻訳の初学者の想像力は、読解力の不足から時には唐十郎以上に奔放で、「自由に読書を楽しむ」としたら、これ以上によい方法はないと思われるものになっているからだ。けれども、翻訳をすることを考えると、はたしてその読み方でいいのだろうかと悩んでしまうのである。

はたして誤訳になるような読み方は、よい読書の仕方と言えるのだろうか? 読書を通じて奇想天外なイメージを楽しむということで言えば、僕は繰り返すが「普通の読者」にだったら「誤読」さえ許されるのではないかと思う。清水義範の『江勢物語』のなかに「スノー・カントリー」という短編があって、川端康成の『雪国』の英訳本を外国人が書いたものだと思って学校の宿題として訳し、英語教師を呆れさせる学生が出てくる作品があるが、この学生の読み方は見事に自由奔放である。しかし、である。

【小説の精読者(リズール)と小説の普通読者(レクトゥール)】

本書の著者、石原千秋は現代国語の入試問題の作成者であり、解説者であり、批判者でもあり、『教養としての大学受験国語』ちくま新書)、『小説入門のための高校入試国語』(NHKブックス)、『受験国語が君を救う!』河出書房新社)など、多くの本を著している。そういった本の要旨は、「入試問題に出てくるテクストは国語を道徳教育と考えている問題作成者の意図に沿って読むべきで、受験生は自由にテクストを読むことはできない」というものだと思う。そこで著者は「読者はもっと自由に読んだほうがいい」と書くのだが、その自由はいったいどこまで保証されているのか? 特に翻訳者にとって……。

翻訳はまず訳者が原書を読み、その内容を解釈することから始まる。そして、日本の読者が日本語の小説に対してそれぞれちがった解釈をするように、翻訳者は原作に対してそれぞれちがった解釈をする。だとしたら、翻訳者にとっては「テクストは自由に読んでいい」と言われたほうがありがたい。「原文の文章の端々に表われている「はずだと思われる」作者の意図を伝える」ことなど不可能だからである。翻訳者は作者本人ではないのだ。作者が書いたものを自分なりに解釈して、それを伝えるだけなのだ。では、どこまで自由に解釈するか? 唐十郎式の解釈や、「スノー・カントリー」のような誤読はとりあえず避けるほうが賢明だろう。しかし……。

実を言うと、本書を読みながら、腑に落ちないところが3つあった。

まずは第四章で著者がフランスの文芸評論家アルベール・ティボーデの『小説の美学』(生島遼一訳、人文書院)から引用して、読者を文芸評論家などの専門的な読者「小説の精読者(リズール)」と、小説といえば娯楽として手当たり次第に読む大衆「小説の普通読者(レクトゥール)」のふたつに分け、「小説の精読者(リズール)」が読みの可能性を広げようとするのに対して、「小説の普通読者(レクトゥール)」は小説を娯楽作品として享受するだけと書いた部分。この部分を読んだ時、僕は最初、「精読者」はテクスト内の文脈を無視することができないので読みは制限され、むしろ「普通読者」のほうが文脈を無視して、唐十郎や「スノー・カントリー」のように自由に読めるのではないかと思った。

また、第七章の「性別のある読者」で、著者が江國香織『きらきらひかる』は、男性の読者でも女目線で読むことを勧めている部分を読んだ時も、これはむしろ、読者に制約を設けているので、「自由に読んだほうがいい」という趣旨とは合わないのではないかと思った。

もうひとつ、最後に第八章で著者が「テクストはまちがわない」という立場から東野圭吾『容疑者Xの献身』を読みといた時も、「テクストはまちがわない」という立場をとったら、読みは制限されるのではないかと思った。

だが、賢明なる読者諸氏はもうお気づきだろう。上の3つが腑に落ちないと考えたのは、この書評の評者の読解力不足のせいである。評者はこの書評を書くために1週間考えつづけ、ある時、はたと気づいた(気づくのに時間がかかったし、また見当ちがいの気づき方かもしれないが、読書をするというのは、そういった個人的なものである)。で、何に気づいたかと言うと、

・自由に読むためには文脈(制約)を無視しなければならない

・別の文脈(制約)にしたがって読めば、ある文脈(制約)に縛られた読み方から自由になることができる

ということである。

 

本書をあらためて読めばわかることだが、「普通読者(レクトゥール)」は読書をする時にさまざまな「社会的制約」を受けている。国語入試問題を読解する受験生たちも、国語は道徳教育に使われているという社会的な制約のもとで作品を読まなければならない。物語の型にしたがって、小説を娯楽作品として消費してしまうというのも(もちろん、そういった読み方や、そんな読み方をしたほうがいい作品があるということも認めたうえで)、社会的、文化的な制約のひとつの表われだろう。著者はそういった制約から自由になって、テクストの内部にある別の「文脈」を掘り起こすという創造的な読み方を勧めているのだ。新しい文脈を発見することによって、古い制約から自由になる。それが「精読者(リズール)」である。「スノー・カントリー」のような誤読を「自由に読む」こととして勧めていたわけではなかったのだ(本を自由に読むための方法だと考えれば、誤読もまた有効だと思うが……)。

江國香織の『きらきらひかる』を女目線で読むというのも、小説は歴史的に男目線で書かれ、女性でさえも男目線で読むことが強制されてきた「社会的制約」から自由になり、男性も女目線で読むことによってテクストの新しい価値を発見しようということだ。以前、教室でそうと気づかず男目線で書かれた小説をテクストにした時(自分が男だったので気づかなかったのである)、女性受講生がいっせいに主人公に反発するのでびっくりしたことがあった。それゆえこの話はよくわかるし、『きらきらひかる』も女目線で再読してみたいと思う。ただ、翻訳ということで言えば、たとえばハードボイルドのような類型的な男目線で書かれた本は、男目線で読み、男目線で訳すことがオーソドックスな訳し方になるだろうと思われる。もちろん、そこであえてちがう読みをして訳すのも、翻訳の範囲の設定の仕方によってはありだと思うが……。

話がそれた。ここで言いたいのは、読者は自分が受けている制約(男目線で読んでしまうこと)に対して意識的になり、別の制約を設けること(女目線で読むこと)によって、より自由な読書ができるようになるということである。

最後の「テクストはまちがわない」という立場から読むというのも、「テクストはまちがわない」という制約を設けることによって、テクストの外部にある常識から自由になり、テクストの内部にある新しい文脈を発見しようということだと考えられる。つまり、「社会常識に照らしてテクストに書かれていることは起こるはずがないので、これは作者のまちがいである」と軽々しく断定しないで、テクストどおりに読めば意外な側面が浮かびあがってくる。それを楽しもうというのである。ここでもまたある制約を設けることによって、読者はこれまでの制約から自由になれる。「自由とは不自由になることと見つけたり」である。ちなみに著者は筑摩書房から『テクストはまちがわない――小説と読者の仕事』という本も出している。

【「テクストはまちがわない」のか?】

だが、実は翻訳者として言うと、僕は「テクストはまちがわない」という立場をとることはできない。「テクストはまちがわない」と考えるのは、ある場合には社会常識も含めたその作品の内外にある文脈を無視することにつながる。だからこそ、自由になれるのだが、そうやって常識的な文脈を無視していくと、誤訳を頻発してしまうことになるからだ。作者はよくつまらない勘ちがいをする。特にフランスの作家は……。それなのに、「テクストはまちがわない」という立場からテクスト内部の整合性を求めていくと、原文には書いてない状況を翻訳者が想定したとんでもない解釈がたくさん出てきてしまう。常識的に考えてまちがいだと思えることは、作者がまちがえたのだろうと思って解釈を進めていったほうが、翻訳者にとってはいい場合が多いのだ。

しかし、それでもこの「テクストはまちがわない」という考え方に魅力があることは認めざるを得ない。たとえば、今年、僕はヴェルヌの『八十日間世界一周』光文社古典新訳文庫)を訳したが、登場人物のひとりパスパルトゥーがカーナティック号に乗って香港を出発した日付が、大きな文脈で考えると11月6日でなければならないのに、原書では11月7日になっているということがあった。常識的に判断して、僕は11月6日にしたが、もし「テクストはまちがわない」という立場からここを読みとくと、カーナティック号はいったん11月6日に香港を出発したあと、途中で香港に戻り(きっと船長が帽子を忘れたのである)、11月7日に再出発したことになる。そして、そう考えたほうが、カーナティック号の航行速度とも合致する。こうした読み方は楽しいし、読みの幅を広げてくれることも確かである。翻訳をするのでもなければ、そういった自由な読み方をして、読書を楽しんでもいいのではないだろうか?

【純文学と中間小説】

さて、ここまで読んで、僕は本書から、

・読者はいろいろな形で制約を受けている

・だから、読者は自分がどういった制約を受けて本を読んでいるか意識したほうがいい

・そして、ある制約から自由になるには、別の制約を設けることが有効である

 というメッセージを勝手にひっぱりしだしてきた。

そこで再び、ティボーデの「小説の精読者(リズール)」と「小説の普通読者(レクトゥール)」の話に戻ると、著者は「小説の普通読者(レクトゥール)」は小説を娯楽作品として享受するだけの「テクストの消費者」で、文芸評論家などの専門的な読者である「小説の精読者(リズール)」は読みの可能性を広げようとする「テクストの生産者である」と説明する。この場合、「小説の精読者(リズール)」の仕事は、テクストのなかに新しい文脈を発見して、新しい作品の世界をつくりだすということである。そして、著者は「小説の普通読者(レクトゥール)」も、時にはそういった読み方をしたほうがいいと勧めるのだ。

では、翻訳者はテクストをどのように読んだらいいのか? ここであらためて考えてみたい。

だが、その話をする前に、本書では第四章で、小説を最終的には「類型的」なものにしてしまう物語の型について説明していること、第五章で純文学と中間小説のちがいに触れ、中間小説はむしろ「類型的」なものでなければならないとしていることを挙げておこう。以下の話はそれを踏まえたものである。

さて、「類型的」という言葉をキーワードにして、「小説の普通読者(レクトゥール)」と「小説の精読者(リズール)」についてもう一度考えてみると、中間小説は「小説の普通読者(レクトゥール)」のように類型的に楽しむ読みをすればよいのだし、純文学は「小説の精読者(リズール)」のように読みの可能性を広げて、作品の新しい価値を見つける読みをすればよいということが言えるだろう。もっとも、文芸評論家のような専門的な読者の場合は、類型的な小説に対しても新しい読み方をして「テクストを生産」しなければならないのかもしれないが、少なくとも一般の読者はそれでよい。翻訳者も然りである。

もちろん、中間小説と純文学はきちんとふたつに分けられるものではなく、中間小説のなかにも純文学的な部分があり、純文学のなかにも中間小説的な部分があるのだが、それはある小説の中間小説的な部分と純文学的な部分を読みわけて、日本語にする時には一般の読者がそう読みわけられるようにすればよい(実は書籍が商品であることを考えると、事はそう簡単ではないのだが、ここはひとまずそう言っておく。少なくとも、テクストに対してはそれでよいはずだから……)。そして、こういった読み方をした時、テクストの純文学的な部分については、自由な読み方をしていいし、自由な読み方が求められることになる。この点では、翻訳者も自分の読みを制限するさまざまな制約を意識して、もっと自由に読むことを心がけなければならないのだ。ただし、その結果、翻訳が「作者の意図」とはちがってしまった場合(その可能性は大きい)、これはテクスト論の立場から当然だとはいえ、まだまだ考えなければいけないことはあるかもしれない。僕自身は自由な読み方をすることに賛成である。

というわけで、これが『読者はどこにいるのか――書物の中の私たち』を読んだ個人的な感想である。最初に書いたとおり、僕は本書を翻訳者という立場からかなり自分に引きつけて読んだので、本書のイメージを正確には伝えていないと思われる(実際はもっと知的な本です)。評者の力不足だということでお許しいただきたい。「書評空間」の読者諸氏なら、僕とはまたちがった立場で、本書の読書からもっと豊かなものを引き出すことができるだろう。「本を読む」ことについて、読者にいろいろなことを考えさせる面白い本である。僕は十分に楽しんだ。

最後にひとつだけ。本書には第六章で、「視点」や「語り手」という翻訳者にとって無関心ではいられない事柄も書かれている。個人的にはその部分を再読して、また本書と一緒に考えてみたいと思っている。楽しみである。


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