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『手招くフリーク 文化と表現の障害学』倉本智明 編集(生活書院)

手招くフリーク 文化と表現の障害学

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アルビノの「美」は本当に発見できたのか。」

 障害者を巡る言説について障害学の立場からアプローチした論文・批評集である。ここでいう障害学とは、障害者をめぐる社会現象を、障害者という当事者の立場から研究しようという学問的な立場を指す、という程度の意味である。障害学とは、障害者自身が専門家を批判し、健常者中心の社会のありようを批判的に検証することからスタートしている。いわば当事者による学問である。

 この障害学には、障害者と健常者の中間的な存在たるユニークフェイス問題(異形研究)が含まれている。

 「顔にアザのある女性たち」の著者であり、異形問題の研究者である西倉実季は、アルビノの「美」をテーマに撮影を続ける写真家リック・グイドッティが主宰する「ポジティブ・エクスポージャー」の活動について論述している。

ボジティブ・エクスポージャー

http://wiredvision.jp/lite/u/archives/200512/2005122704.html

http://www.wired.com/culture/lifestyle/news/2005/12/69698

http://www.positiveexposure.org/about.html

 約15年にわたってファッション雑誌の最先端で働いてきたリックは、あるときバス停でアルビノの美少女に見せられてしまう。これをきっかけに、アルビノの美をテーマにした写真撮影を始める。

 アルビノとは、先天的にメラニン色素がないという先天性の疾患である。肌が白い、髪の毛のメラニンもないので金髪に見える、眼球のメラニンもないので目が赤く、弱視である、という特徴がある。当事者として、もっとも困難な課題は弱視なのだが、肌が異様に白い、金髪である、という外見上の特徴から、異形として遠ざけられたり、美として賛美されたり、と相反する価値観のなかで生きることを余儀なくされている。ユニークフェイス問題(見た目問題)のなかの、疾患グループの一つである。

 西倉は、リックの写真を見ながら、その美が「白人の美」に偏向していることを指摘している。

 リックのフォトエッセイについて次のようなコメントがあったことを西倉は紹介する。

「プロジェクトの目的は賛同できるのですが、気がかりに思ったのは、ライフ誌に掲載されているコメントが「美の再定義」ということで、「前向きに生きる」、「互いの違いを認め合う」を超えて、アルビノの美化に走っているところです。また、ライフ誌掲載の写真は、白人ばかりで「多様」ではありません」

 たしかにリックの写真は美しい。もともと美しいアルビノ少女を、より美しく撮影している。ファッション雑誌で働いてきた、美の最先端にいるリックとしては、職業的に美をつくりこむことになるのだろうと思う。私もリックの写真を見たとき、広告的であり、白人美の偏向を理解した。しかし、リックが白人であり、ファッション雑誌という白人の富裕層が広告を出し、それを見る読者層も白人(または白人の美にあこがれる読者層)で生きている以上、一つの限界があることは理解できる。

 

 西倉の批判的検証が重要なのは、ユニークフェイス問題のようなデリケートなテーマを、神聖視させない、批判をゆるさない聖域にしない、という姿勢を打ち出しているところにある。

 リックは、アフリカでいまも進行中である、アルビノ当事者に対する虐殺について警鐘を鳴らす啓蒙家でもある。アフリカの一部では、アルビノ当事者の肉体を食べることでエイズが治るなどと信じる人達がおり、

人間狩りが行われている。

http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2528599/3423929

 リックはアルビノ問題の社会起業家のひとりである。しかし、その行動とは別に、彼の美意識は白人美に偏重しており、そのなかでの「美の再定義」という彼の理念には一定の限界がある、という西倉の指摘は正しい。

 もちろんリックはこの程度の批判は十分に承知しているはずだ。人目をひくために何が必要なのか。一般大衆はどういうものを見たがっているのか。その隠された欲望をしっかり映像化することで、彼は寄付を集め、写真展を開催し、その知名度でアフリカのアルビノ狩りを止める行動を展開していく。

 私は行動するリックを讃える。同時に、第二、第三のリックが登場することを願う。

 真の多様性とは、被写体となった当事者の多様性だけでは実現されない。当事者を記録する記録者・支援する支援者という第三者の多様性によって実現されるからである。

 そう考えると、多様性に遠い現実がある。世界中で多様性が足りないのである。


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