『失われた手仕事の思想』塩野米松(中公文庫)
「手仕事がつないでいくもの」
私の祖父は大工だった。
まじめで誠実な祖父のところには、近所からたくさん仕事がきた。
まだ、近所を歩くと、祖父の「仕事」がたくさん残っている。
手でつくりだしたものを、顔がみえる人がつかう時代。
もう、失われてしまったのだろうか。
わかいしゅ(「若い衆」だと漢字変換できたのは大きくなってから)が台所で夕飯を食べていると、遊んでもらいたくて邪魔をしたのを覚えている。
だれも怒ることをせず、ひざにのっけてくれて、遊んでくれたものだった。彼らの汗臭さ、無駄のない、筋肉がついた美しい背中、節くれだった指。
「おかみさん」である祖母がつくる、彼らの日の丸弁当の大きさに、
ため息をついた。梅干は、すっぱくて、しょっぱかった。
職人が消えることによって、日本の技がどんどん消えていく。
速くて便利な世の中を求めれば求めるほど
機械化され、効率を求められ、「技」や「勘」はかえって仇になり
息を潜めているうちに、とうとう消え入りそうになっている。
しかし、彼らがつないできたものは、職人の技だけではない。
それは、日々の中から生まれた文化、息遣い、暮らしそのもの。
これらが失われて本当に貧しくなったのは、「子育て」だと思った。
私が守り育ててもらったあの景色、たたずまいは
ただそこにあるだけで、私を育てた。
けして「子どもがそだつのためのいい環境」を整えたわけではなくって
(今や、金の力で整える人だっているのが本当にばからしい)
ていねいなシンプルな、手仕事のある暮らしが、子どもたちを育てた。
「こどものいるくらし」を大切にしたい、と今、思うならば、
失われていくものを懐かしみ、惜しむのではなく
次世代の私の子どもたちとそのまた子どもたちのために
つないでいかなければならない。
今のためにではなく、未来のために。
まだ、つないでいけるだけの力が私たちに残っていると信じたい。
まだ、間に合う、と。