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『ローマ喜劇』小林標(中央公論社)

ローマ喜劇

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「悲劇か喜劇か」

夏の終わりに出た本書は、すでに方々で話題になっているようだが、私にとって間違いなく今年の収穫の一つなので、本欄でも取り上げることにした。恐るべし中公新書、と唸らされた一冊。

この書を読むまでは、悲劇はもちろん喜劇も本場は古代ギリシア、と信じていた。アリストパネスが出たあとは、古代喜劇もまた死んだのだろう、と。「ローマ喜劇」と言われても、セネカによってギリシア悲劇がストア風の味付けでラテン語に翻案されたのと同程度だろう、と高を括っていた。ところがどっこい、そんな話ではなかった。ここにこそ「古代ローマ」があった。民主制下のアテナイ市民とは異なる、共和制期のローマ人が、まさに躍如としていたのである。

古代世界においても、いや観劇を愉しんだローマ人にさえ、悲劇はもちろん喜劇も本場はギリシア、と固く信じられていたらしい。じっさい、悲劇と同様、ローマ喜劇はギリシア喜劇をお手本としていた。二流の作品がではなく、今日まで伝えられている傑作群――「パリウム劇」つまりギリシア風衣裳の芝居――がそうなのである。舞台設定はギリシア、もちろん登場人物もみなギリシア人、筋立てもギリシア社会の内情を反映したものばかり。そんな模倣のどこにローマの独自性があるのかと言いたくなる。だが、演劇の歴史は古来、異国風の物真似の連続であった。

著者は、近代日本の「新劇」運動を考えろ、と良きアドバイスを与える。西洋近代劇のスタイルをわが国に定着させるべく、台本書きは翻訳家となり、役者はみな西洋人に化けた。それと同じで、「外国で発達した芸術様式を自国に根付かせようと奮闘すること」(12頁)こそ、パリウム劇という「文化運動」のめざしたことだった。ローマ風喜劇も当時作られたが、早々に廃れてしまった。ギリシア喜劇を真似てローマ喜劇が興り、それが時代を超えて甦ってルネサンス期のイタリア劇となり、さらにそれを真似たのがシェイスクピアであり、モリエールであった。その先に無数に現われた一例が新劇。そもそも芝居は「真似」から始まったのである。

ローマ喜劇作家の双璧プラウトゥスとテレンティウスの作品は、それぞれ20編と6編が伝えられている。エウリピデスが19編、アリストパネスは11編、アイスキュロスソフォクレスが7編ずつだから、20という数はすごい。6という数字にしても、全作品数だと聞けば、これまたすごい。お手本とされたギリシア新喜劇があらかた散逸したのに対して、ローマ喜劇がこれほど生命力を発揮したのは、それだけ人気があったからだ。パリウム劇が作られた紀元前三世紀から二世紀にかけての80年間、新興国ローマは、対外的にはハンニバルの侵攻に遭うなど、苦難の連続だった。そんな時代に、市民に圧倒的に支持された数々の劇作は、時代を超えて読み継がれ、人類の至宝となったのである。

著者は、演劇史上におけるローマ喜劇の重要性を説得的に論じているが、個々の作品を紹介する労も怠っていない。前半の概論部で、プラウトゥスの『プセウドルス』とテレンティウスの『義母』が、手始めに取り上げられ、後半の個別紹介部では、二大作家の主要作品が解説される。前半後半とも読みごたえがあり、新書サイズとしては二冊分のボリューム。今日にまで至る翻案の伝統や、近年の研究動向の紹介、「一演劇愛好家」を自認する著者ならではの古典解釈と作品批評。加えてもう一つ、本書の価値を高めている特色がある。古代と現代との埋めがたいギャップに対する、著者の鋭敏な感覚がそれである。

プラウトゥスの代表作に数えられる『プセウドルス』には、「恋に悩む無力な若者、恋の対象である拘束された遊女、息子の放蕩に怒る厳格な父、放蕩を手助けする悪賢い奴隷、強欲な遊女屋の亭主」(31頁)が登場する。現代人に評判の悪い「家父長制」が大枠をなす。のみならず、遊女、遊女屋の主人、そして奴隷と、今日では禁断のキャラクターが大活躍するのが、ローマ喜劇なのである。それでいて、身分差別はいささかも揺るがない。主人公プセウドルスは、「狡知な奴隷」として、主人と立場が逆転するほどの活躍をみせるが、奴隷のまま、アンチヒーローの悪役に徹する。奴隷は、あくまで物笑いの対象であるがゆえに、喜劇の主役たりうるのだ。

奴隷制はもとより、ローマ喜劇には、強奪、誘拐、捨て子、捕虜、奴隷の性的虐待と、現代人の神経を逆撫でするに十分な題材が揃っている。テレンティウスの『義母』の筋立てに至っては、正視に耐えない。主人公の若者は、自分が強姦した娘と、互いにそれと知らずに結婚し、妻が妊娠を隠すのを不思議に思うが、強姦したさいに奪った指輪をきっかけにして、真実が明らかとなり、めでたしめでたし、というのである。そんなハッピーエンドがあってよいものか。しかし、プラウトゥスもテレンティウスも、婦女暴行を筋立てに平気で使っている。「強姦は、市井の人間たちの間で起こる事件とその解決という物語の中で気安く使える題材であった」(68頁)。著者も指摘するとおり、「ギリシア神話はそもそも強姦が大好きなのが特色と言ってもよく、大神ゼウスは処々方々で人間の娘をむりに犯している」(65頁)。それにしても、悲劇ならともかく喜劇の中で性暴力を笑いの題材にするとは、と考え込んでしまう。

「パリウム劇での常識と近代人の常識との間には深い裂け目があることは否定できない」(76頁)。この深刻なギャップを隠し立てせずに、古代喜劇を喜劇として愉しむことは、どこまで可能か。この問題を考えるためのキーワードが、ゼウス神による人妻凌辱をテーマにした『アントルピオ』のプロロゴス(前口上)に初登場する「悲喜劇(tragicomoedia)」という言葉なのである。神に愛されるあまり犯された女性が苦しむのは悲劇だが、神に妻を寝取られた夫の姿は滑稽だし(他にもどこかにあったような…)、最後に、夫の子と一緒に神の子ヘラクレスが双子で生まれてくるのも可笑しい。悲劇と喜劇の共存が、ドラマの重層性そのものを形づくる。そういった奥行あるおおらかさを、古典を鑑賞する現代人も、持ち合わせてよいのではないか。世の悲惨が目に付きすぎる時代だからこそ、「悲劇の喜劇化」が、われわれには必要なのである。そしてそのためにも、ローマ人のあっけらかんとした笑いの質を会得できるしなやかさが求められるのだ。

現代というクソまじめな時代を笑いのめす軽やかさを新書で学べるのは、じつに喜ばしい。次はぜひ『ローマ喜劇集』全五巻(京都大学学術出版会)に挑戦したいものである。


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