『哲学原論/自然法および国家法の原理』トマス・ホッブズ(柏書房)
「近代的なものの原典」
ついに出た。ホッブズの哲学体系三部作の完訳。哲学要綱草稿付き。2012年の読書界の収穫と言えば、本書を挙げなくてはならない。総計1700頁に及ぶ大冊(!)の重みは、優に大辞典に匹敵する。持ち運びには不便このうえなく、本体価格は二万円。誰が買うのか分からないような、開いた口がふさがらないほど反時代的な本を出す出版社の――気が知れない、というか――意気にはほとほと頭が下がる。一冊でホッブズ著作集が揃えられると思えば、じつは決して高くない買い物である。
訳者は福島の大学教員と高校教員のペア。十七世紀に書かれたラテン語と英語の二通りのテクストを比較対照し訳出するという作業にかけられたであろう労力は、想像を絶する。一部を除きこれまで手の付けられなかった難事が果たされた今、日本のホッブズ研究は新時代を迎えた。同時代人デカルトの影に隠れ傍流に甘んじがちであった近代精神の創設者の一人を、正当に遇することが容易になったのである。
ホッブズと言えば、『リヴァイアサン』が有名である。なるほど、マイケル・オークショットも絶賛するように(『リヴァイアサン序説』中金聡訳、法政大学出版局)、この代表作はかつて英語で書かれた哲学書の中で最も偉大な傑作の一つであろう。しかし、ホッブズが彼の時代の学術語であったラテン語で書いたライフワークと言えば、『哲学原論』を措いて他にはない。デカルトの主著が、『方法序説』ではなく『省察』であったのと同じく。
四十歳を過ぎて哲学研究に本格参入した遅咲きのホッブズは、五十二歳の年(1640年)、哲学体系構想を『法の原理』という英語の草稿にまとめたのち(これが本訳書に付されている『自然法および国家法の原理』で、訳文260頁とこれだけで普通は一書の分量)、主著『哲学原論』の執筆に取りかかる。まず第三部の『市民論』を、亡命先のパリで1642年に著す(同じ頃、デカルトは『省察』を出版)。第一部『物体論』は1655年、第二部『人間論』は1958年に出ている。
その間の1651年、一般向けに書かれた『リヴァイアサン』は、政治哲学を中心とし、かつ宗教論を補強する形になっている。そこに同時代人の関心の所在のみならず、著者の真骨頂が示されているとも言えるが、それもあくまで哲学体系全体の内部に位置づけられるべきものである。そういう意味で、本訳書によってホッブズ哲学の全貌が明らかになったことの意味は大きい。『市民論』の本邦初訳(本田裕志訳、京都大学学術出版会、2008年)に続く快挙である。
ホッブズとは何者か。『リヴァイアサン』の著者は、自然状態を戦争状態と等置したうえで社会状態への移行による平和と安全の確保を説き、社会契約論の創始者となった。――このような理解は決して間違いではないが、その前に確認しなければならないことがある。ホッブズは、ガリレイ、ケプラー、ハーヴェイ、デカルトらと同じく、十七世紀科学革命に参画した革命家の一人であった。その正統な続行として、伝統的政治哲学を転覆し新しい政治哲学を確立することに意を注いだのである。この事実をはっきり示すのが、『哲学原論』第一巻『物体論』に付された献呈の辞である。
ホッブズは、まず、幾何学とその論証形式は古代から完璧であったこと、これに対して、古代にも地動説はあったが抑圧されてきたため天文学の真の始まりはコペルニクスを待たねばならなかったこと、また、運動論を中心とする自然哲学はガリレイを以て嚆矢とすること、英国人ハーヴェイの医学上の新発見もこの新しい流れに棹さすものであったこと、さらに、ケプラー、ガッサンディ、メルセンヌにより急速な進歩が見られたこと、を顧みたうえで、この知的躍進の続行として政治哲学を創始したのはこの私だ、と述べる。
「国家哲学は私自身の『市民論』より以前には遡ることができません。」(10頁)
「挑発的」な自負であることは本人も自覚しての発言だが、私は、ホッブズのこの時代認識と自己了解は、正確無比であったと思う(数学におけるデカルトの業績をわざと抜かしている点を除けば)。「アリストテレスの自然学と形而上学から多くの愚かで誤ったものが利用され」(11頁)てきた学問の伝統が、攻撃の的とされるのも、十七世紀科学革命の精神を体現している。アリストテレスの自然学に代わるものをガリレイが作り出したとすれば、アリストテレスの政治学に代わるものを作り出したのはホッブズだった。
新しい国家学の成功に続けとばかりに、自然学と人間学も一から基礎づけ直し学問体系全体を刷新せんとする野心が、『哲学原論』には漲っている。「新しさ」を作り出すことへのあくなき意欲――それが「新しい時代・近代(the modern age)」という時代を形づくってきたのだとしたら、紛れもなく、ホッブズはその始祖の一人であった。それゆえ、この始まりの人の主著は、「近代的なものの原典(the elements of modernity)」と言ってよい。
何事も無から始めることはできないし、当時新しいと思えたことが今日では古びて見えるのは世の習いである。それどころか、ホッブズならではの議論の多くは、むしろ常識的に見えてしまう。推論つまり計算と同一視される理性概念にしろ、徹底した唯名論にしろ、「世界無化」の想定にしろ、分析―総合の還元主義にしろ、形相因と目的因を排除した原因論にしろ、瞬間における運動と解された「努力」から導かれる感覚論にしろ、最大の善を「自己保存」に見出す生命尊重主義にしろ、人間はみずから作ったものしか真に認識できないとする真理観にしろ、みなそうである。つまり、あまり変わり映えしない。
だが逆に言えば、近代に支配的となった考えの根をさぐるには、まずは創始者ホッブズに差し戻して考えてみるのがよい。本書はそういう系譜学的発見に満ちている。
『人間論』では、視覚に関する光学的説明がえんえんと続くが、その議論は望遠鏡(と顕微鏡)による造影技術へ最終的に至りつく。ガリレイの望遠鏡による発見と、その衝撃に由来する認識イコール制作の考え方が、ホッブズの思考をどれほど規定していたかが、あらわとなっている。この科学革命の現場を目の当たりにするだけでも、じつに意義深い。『人間論』第一章で、「解体」つまり死と死因について語られているのも、「近代的なものの原典」と呼ぶにふさわしいスタートである。
本訳書には、1400頁近くに達する本文に、さらに資料類が付されている。わざと重厚長大にしているのではと疑いたくもなるが、たぶんそれは的外れだろう。資料Ⅰは書簡選、Ⅱは『哲学原論』と『法の原理』・『リヴァイアサン』の章立て比較表、Ⅲは略年譜(3頁と、これだけ軽薄短小)。88項目に及ぶ主な用語の訳者注解まで付いている。訳者解説は50頁弱で、通例なら長いのだが本書では短く感じられる。最後に収められた全目次だけで80頁近くある圧倒的ヴォリューム。これはもう、れっきとした現代の奇書である。
なお、翻訳とくに本邦初訳には不完全さが付きものであり、本書もその例に漏れない。全体として工夫された訳文ながら意味の取りにくい箇所が散見され、また古典語の取り扱いに関しては素人目にも首を傾げたくなる箇所がある。だが、これまで哲学専門研究者になしえなかった偉業を前にして、些細な注文を付けるのはやめよう。私は本書を前にして、存命中にホッブズの主著を日本語で平易に読めるようになった幸運を天に感謝したい。今の時代に生きていてよかったと思えるほどの読書経験は、そう滅多にない。