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『巨大バッタの奇蹟』室井 尚(アートン)

巨大バッタの奇蹟

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「昆虫が世界を救う?」

 教授会がめずらしく早く終わったとき、同僚で現代中国文学が専門の山口守さんが「せっかく本もってきたのに読む間がなかったよ〜」とぼやきながら、妙に赤と銀のカバーのめだつ本を見せてくれた。バルーンでバッタをつくる話なんだけど、垂水千恵さんから面白いから読めとすすめられたのだと言う。なんだかよく訳の分からない話だけれど、この究極の口コミこそ、面白い本に出会う一筋道である。著者の室井尚といえば、ポストモダン美学の翻訳書や文学理論の本を読んだことがある。そこでさっそく紀伊国屋ブックウェッブで注文したのが本書である。
 巨大バッタが登場したのは、二〇〇一年に開かれた横浜トリエンナーレの会場。それもインターコンチネンタルホテルの横っ腹にとりつけられたのである。そういえばそんなことあった、草間彌生オノ・ヨーコのオブジェを赤レンガ倉庫に見に行ったことがあったが、あのときトリエンナーレの目玉のひとつが巨大バッタだった。バルーンで六〇メートル以上におよぶバッタをつくりあげ、ホテルの壁にすえつけていた。ふつうはだれもそんなこと思いつかない。何の意味があるんだと首をかしげてしまう。しかし、それがアートだと著者はいう。一般に使われる意味のアートではないけれど、まぎれもなく事件としてのアートなのだ。
この本は、その飛んでもないことを思いつき、実現させたひとびとのドキュメントである。仕掛けたのは室井尚とアーティストの椿昇。このコンビが横浜トリエンナーレへの出展として企画し、トリエンナーレのアート・ディレクターや事務局、パシフィコ横浜の事務局、そしてインターコンチのホテルマン、バルーン製作業者や建築会社、室井のつとめる大学の学長や学生たちを巻き込み、未曾有のプロジェクトを完遂する。いっけん晴れがましい自画自賛の記録のように聞こえるかもしれないが、さにあらず。事実は悪戦苦闘、それこそ死に物狂い、金と時間と生命まで賭けた悪路隘路の連続するダカール・ラリーなみの日々だったのである。
それはそうだろう。巨大バッタが何でホテルに現れるのか、だれにも理解はできない。費用はバルーン製作だけで千五百万を越え、設置や管理などの経費は莫大なものになる。額縁に入ったアートには崇拝の念を抱いたとしても、額縁からはみ出したアートには理解がないのが日本社会である。説得し、誘惑し、交渉していく長い、長いプロセスがある。とにかく本書の前半で著者はさまざまな人々にあきれ、怒り、ぼやきつづける。しかし、そのなかで意外と偶然の積み重ねがあり、思いもかけぬ出会いと共感が呼び起こされてくる。しかも、バルーンは空気が抜ければただのゴム生地。風が強くなれば巨大バルーンは凶器にもなる。この危険な怪物を浮上するプロジェクトに世代、性別を越えた人々が次第に夢中になっていく。昆虫には大人たちにも幼児の記憶を呼び覚ます効果があったらしい。著者はそれを「インセクト・ワールド」と呼ぶ。
わたしにとって本書は実際の巨大バッタよりも面白かった。ポストモダンの作品を完成させるために、作家たちは地道にロケハンしたり、CGの画像を作ったり、地方自治体の役人たちや愚劣な業者に腹を立てたり、企業支援に頭をさげたり、ボランティア学生たちのみごとな指揮ぶりに感涙したりしている。その苦闘は徹底して現実的で、実務的である。その果てに無意味な化け物があらわれてくるのだ。
著者は横浜国立大学唐十郎を招聘した仕掛け人としても知られている。そのいきさつはもう一冊の『教室を路地に! 横浜国大vs紅テント2739日』(岩波書店)に書かれている。本書で巨大バッタのあげおろしで業者を驚かす仕事ぶりをした学生たちのもうひとつの顔がこちらにも出てくる。

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