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『ヘブライズム法思想の源流』鈴木 佳秀(創文社)

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旧約聖書の謎解き」

旧約聖書の『申命記』でモーセが語る重要な言葉がある。「イスラエルよ、聞け。われわれの神ヤハウェは唯一なるヤハウェである。あなたはあなたの心を尽くし、精神を尽くして、力を尽くして、あなたの神ヤハウェを愛さなければならない」(六章四~五節)というものである。

このモーセの言葉は奇妙な謎にみちている。相手に向かって「イスラエル」という三人称的な言葉で呼び掛けながら、すぐに「われわれの」神という一人称の複数に転換する。そして「あなたは」という二人称の単数に切り替わるからだ。この人称の単数と複数、一人称と二人称、三人称の転換は以前からさまざまな議論の対象となってきた。

この書物ではヘブライの法思想を当時のオリエント世界の法律と比較する考察など、示唆に富む考察も多いが、何よりもこの謎を解くことに力をいれており、この謎の解明が本書の山場でもある。

まず著者はこの『申命記』という文書がヨシュア王の「申命記改革」の際に作られたという主張の大筋を認めながらも、その内部に重層的な構造が存在していると考える。もっとも基礎となったのは、レビたちが信者たちに命じるために、ヘブライのさまざまな掟を語る部分である。

この掟はすでに存在しているものであるために、ここは三人称で語られる。たとえば「ある人が死刑に値する罪で処刑された場合には、死体を木にかけねばならない」。これが掟の本体部分である。この掟を信者たちに語るときには、「あなたはその人を木にかけなければならない」という二人称が登場するわけである。

ここではモーセは「直接的には法の権威と関わりがなく、法の語り手としても登場しない」(p.136)。これは口承の掟を語るレビの言葉である。しかし法典をまとめる段階において編纂が行われ、モーセが「あなた」と語る部分が構成される。これは「国家の役人の責任において、……民に守らせるべき規範を(責任、権利、義務)、モーセが語り手となって」(138)語る部分であり、ここでは語りかけの相手は共同体の役人が想定されている。

その後にこうした法典の序文として、冒頭にくるモーセの言葉が置かれる。ただし著者はこの段階ではまだ「われわれの」という部分は存在しなかったものと想定している。その次にくるのは、「あなたがた」という呼び掛けによる編纂である。「あなた」ではなく「あなたがた」という呼称が使われるのは、「統合されたイスラエルではなく、聞き手をある特定のグループに限定しつつ」(139)呼び掛けているからだと考えるのが、著者の着眼点である。

著者はこれはヨシュア王の時代にユダヤイスラエルを統合した際に、それまでの伝統的な呼び掛けが通用しなくなっていること、そしてイスラエルには別の民族が移住していたために、モーセ十戒が破られる危機的な状況が存在していたこと、そのために彼らではない「あなたがた」という区別の言葉が語られたのだと考える。

最後が「われわれ」という呼び名が登場する段階である。ここはすでに捕囚段階にあって、「帰属意識の基盤であった国家が消滅した」状態において、もはや自明なイスラエルの民が存在しないために、主体的な決断をもって、個々人が歴史を導くヤハウエに対する信仰告白を語ることが求められたのだという(140)。

一つの文書から、その背景となる歴史的な事実との関係を裏付けるのは困難であるが、楽しい冒険でもある。本書はその一つの試みとして、ワクワクしながら読んだ。最近活発になってきた考古学的な研究からは、旧約聖書をそのままでは読めないことを明らかにする証拠がいつくも登場している。まだまだ旧約聖書は深い謎を蔵している。ああ、これまでの聖書の文字通りの解釈を破壊するような、活きのいい考古学的な研究書は登場しないものか!

鈴木 佳秀

創文社 ; ISBN: 4423301237 ; (December 2005)

目次

旧約聖書の中心をめぐる諸考察とヘブライズム法思想

第1部 ヘブライズムの文化的・法的環境世界(古代メソポタミアの法秩序と古代イスラエル法の独自性

古代イスラエル人が生きていた罪と罰の世界

古代イスラエルにおける法共同体の成立)

第2部 ヘブライズム法思想における申命記の意義(旧約聖書における申命記の位置とその特質

申命記をめぐる文献学的研究の現在・未来

申命記改革における王国の司法行政

ヨシヤ王による占領政策同化政策

申命記における聖戦思想の復活と聖絶観念の成立)

第3部 ヘブライズムにおける歴史意識と申命記の遺産(歴史書編纂における申命記史家の歴史意識

申命記史家によるイスラエル理解の虚構とその創造性

ヘブライズムから見た聖戦論の思想史的意義)

モーセ像をめぐる伝承史的考察から見たヘブライズム法思想の特質

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