『ラテン語名句小事典』 野津寛 (研究社)
コンピュータのおかげで調べ物は格段にたやすくなった。電子辞書は以前から重宝していたが、ちょっとした単語ならインターネットで無料で調べられるようになった。自動翻訳の訳文は読めたものではないが、知らない言語の文章のおおよその意味がわかる程度の精度には達しており、それはそれでありがたい。
しかしラテン語のような過去の言語となると数がぐっと減るし、引用句を調べるとなると英語版Wikiくらいしか思いつかない。ラテン語の決まり文句や格言、金言は今でも欧米語の文章中によく引用されるから需要はあるはずなのだが。
サーチエンジンで検索するという手もあるが、関係ないページが多すぎて正解にたどりつくまでが手間である。たとえば diem perdidī を検索すると最初に出てくるのがダイエットのサイトだったりする。
ラテン語の引用句辞典は英語なら定評のあるRoutledgeのが手ごろな値段で出ているが、日本語では岩波書店から出ている『ギリシア・ラテン引用語辞典』がほとんど唯一の選択肢だった。しかしギリシア語やラテン語の基礎知識のない者には敷居が高いし、値段も六千円を越えているのでよほど必要に迫られないと手を伸ばしにくいだろう。需要と供給の問題になるが、ラテン語の辞書も羅英辞典ら安くていいものが出ている。
最近ラテン語の知識がなくても使える名句事典が岩波版の半分の価格で出たので紹介しよう。野津寛編著の『ラテン語名句小事典』で、岩波と較べると判型は一回り大きいもののページ数は1/4である。
さきほどの diem perdidī を引くとこうある。
diem perdidī
ディエム ペルディディー
私は一日を失った [Suet. Tit.8]
▼スエトニウス『ローマ皇帝伝』によれば、その情け深さで民衆に好かれた皇帝ティトゥスは、自分に会いに来た人々に常に何らかの約束を与え、希望を与えて帰していたが、誰にも何も与えなかった日は、後悔して「私は一日を無駄にした」と言ったという。
「一日を無駄にした」ということでダイエットのサイトの表題になっていたわけである。
ラテン語の読みはローマ字と同じだが、カナで読みが書いてあるのは心強い。和訳の後ろの [Suet. Tit.8] はスエトニウスの「ティトゥス皇帝伝」第8章という意味で、凡例に出典の略語の一覧があるが、多くの項目では説明の部分に「スエトニウス『ローマ皇帝伝』」のように出典を織りこんであるので凡例にもどる必要はない。
すべてではないが、簡単な文法解説もはいっている。
mendācem memorem esse oportet
メンダーケム メモレム エッセ オポルテト
嘘つきは記憶が良くなければならない [Quint. 4.2.92]
▼クインティリアヌスは、演説家が演説の中で嘘の陳述を行う場合、その演説全体を通じ首尾一貫して嘘を貫かなければならず、どんな嘘をついたかをよく覚えている必要があると言っている。人はついた嘘を忘れてしまう傾向があるからである。
文法mendacem 嘘つき<男 mendax の単数・対格>/memorem 記憶力がよい<形 memorの男性・単数・対格>/esse oportet ~であるべきである<動sum の不定法現在+非人称・動 直接法現在>
よけいな情報と考える人もいるかもしれないが、ラテン語は動詞だけでなく名詞も活用するので、こういう説明がないと初心者は辞書を引くのもおぼつかないのである。
ラテン語の引用には聖書の章句も多いので聖書由来の言葉も上げておこう。
omnia munda mundīs
オムニア ムンダ ムンディース
清い人にはすべてが清い [新約聖書「テトス書」1章15節]
▼この後に「しかし、汚れた不信仰な者には、清い物は一つもなく、その精神も良心も汚れてしまっている」と続く。
文脈の解説があるので聖書の当該箇所にあたる手間が省ける。出典を参照すればいいという人がいるかもしれないが、聖書ならともかく、ウェギリウスやオウィディウスの元の文章を調べるとなると大変な手間である。
もちろん近世以降の名句も載っている。
in [ad] ūsum Delphīnī
イン[アド] ウースム デルピーニー
王太子御用(の)、(卑猥な箇所などが)削除された(本)
▼文字通りの意味では「皇太子が使用するための」となる。ちなみに、フランスの国王ルイ14世の息子の教育のために39人の学者によって注釈を施され出版された古典作家のコレクションのテキストでは、教育上不適切箇所がほとんどすべて削除されていたという。
読む事典としてもなかなかのものである。
これだけ使い勝手のいい事典が三千円ちょっとで手に入るのはありがたいが、普通の平綴じなのですぐにガタがきそうである。長く使いたい本なので500円くらい高くてもいいから装丁をもうちょっと頑丈にしてほしかった。