『承認の行程』ポール・リクール(法政大学出版局)
「哲学の舞台裏」
この書物は、承認reconnaissanceという語にこだわりながら、この語とその概念を「哲学素」として構築しようとする試みである。哲学のスタンスとしてまっとうすぎるほどまっとうな試みで参考になるだろう。
ただ読み終えて何となく苦みが残って気になった。リクールのスタンスはまっとうであり、引用する文献も古いものから同時代のものにいたるまで広範であり、九〇歳を超えてもまだまだやれるという「励み」を与えてくるにもかかわらずだ。
われながら不審に気持ちがして考えたみたのだが、その「苦み」はリクールの手つきがあまりにみえてしまうことによるのではないだろうか。リクールが原稿を書きながらつぶやいている声が聞こえるような気がするのだ。たとえばこんなふうに。
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最初はこの言葉がフランス語の歴史の中で登場した経緯と、辞書的な解説から入ろう。そしてヘーゲルの弁証法の構図を借りて(リクールは方法論的にはヘーゲリアンなのだ、ぼくもだけど)、第一部は「わたしが再認する」、第二部は「わたしが他者から再認される」、第三部は「わたしたちがたがいに承認しあう」とすればいいだろう。そしてタイトルはヘーゲルの『精神現象学』の精神の「旅」にならって「行程」と名づけておこう。
第一部のところではまず近代哲学の端緒となったデカルトから始めて、自己による世界の認識と再認という認識論を考察しながら、「真なるものと偽なるものの区別」という意味をとりあげておく。次にカントの「知覚の予料」のところから同一性の認識における図式論の問題点を取り上げておこう。ついでのカントの超越論的な哲学の限界を指摘しながら、フッサール、レヴィナスとつないで、現象学の方法の優位を指摘しておく。フッサールのメロディーと記憶という時間論も、カントとのかかわりでいれておけばふくらみがつくな。
第二部は他者によって自己が再認されるところ。哲学とは少し離れるけど、これはオデュッセウスがイタカの我が家で本人と再認される逸話が抜かせないな。妻ペネロペによるあの劇的な再認!
次はギリシアから近代に飛んで、自己の再認における自己反省性をとりあげよう。それは「わたしはできる」というフッサール的なところから初めよう。この「できる」は弁証法的に構成すると「わたしは言うことができる」「わたしは為すことができる」「わたしは語ることができる、しかも自己に向けて語ることができる」となるだろう。ここでついでに分析哲学の「語ることによって為すこと」という論点を導入しておきたい。
この語る自己から出てくるのは、約束する自己と責任を負う自己、そして記憶する自己だ。もちろん約束と責任のところでニーチェとアレントをだすのを忘れないように。記憶する自己はアウグスティヌスからはじめる。記憶論はもうずいぶん書いたから簡潔に。
第三部は本書の核心だ。まずヘーゲルの主奴論における承認論。これはお約束だ。ただコジェーブがすっかり書いているので、ここはコジェーブに言及しておけばいいだろう。ホッブズの自然状態とヘーゲルがいかに対決しているか、もう少しほりさげたかったな。それよりもイエナ期の「実在哲学」の頃のヘーゲルをテーマに、最近討論の相手になっているホネットの承認論と取り組むことにしよう。
ホネットは愛、法、社会的な尊重という三つのレベルで相互承認について論じている。愛はもちろん家族の圏域だから、ここではアレントの「誕生」の概念の重要性を指摘しておきたい。法のところでは民主主義的な参政権の問題に軽くふれておこう。社会的な尊重のところでは、多文化的な相互承認というグローバリゼーションの時代に重要になったテーマをとりあげおきたい。
最後に私に固有な論点として、アガペーを論じる。相互承認という問題が全体性への包合というヘーゲル主義的な「罠」を隠しもっていることを指摘したのはユダヤ思想のレヴィナスだった。レヴィナスはこれに対抗するために「他者」の概念を提示したのだった。しかしキリスト教の思想にはこの「罠」を逃れるための重要な契機がある。神を通じた相互的な愛であるアガペーだ。この超越的なものを介在させることで、他者を「わたしたち」の全体性にとりこまずに、承認することができる。うん、これで一丁あがり。
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と、リクールが呟いていたばずもないのだが、なぜこれが苦く感じられるかというと、これはぼくがこれまで哲学の概念を考察しながらやってきた方法でもあり、これからも使うだろう方法だからだ。何もこんなに楽屋裏をさらけださなくても(笑)。
【書誌情報】
■承認の行程
■ポール・リクール[著]
■川崎惣一訳
■2006.11
■387,10p ; 20cm
■原タイトル: Parcours de la reconnaissance.
■ISBN 4588008544
■定価 4300円