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『香水― ある人殺しの物語―』パトリック・ジュ-スキント[著]池内紀[訳](文藝春秋)

香水― ある人殺しの物語―

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「愛と存在をめぐる贖罪の寓話」

優れた文学作品が映画化されると、多くの場合、失望は免れない。映画『パフューム』はその点、相当の健闘をなした作品である。一部の宣伝では、その猟奇的側面が誇張されすぎた感を拭えないが、映画を観た方にとっては、この作品がけっしてキワモノを売りにした類のものでないことは了解済みと思う。

 主人公(グルヌイユ)は、存在の始まりからして、嬰児殺しの常習犯である母親に見殺しにされるはずだった。ところが、産声を挙げたばかりに殺人未遂が発覚して、母親は処刑台の露と消える。つまり、産まれ落ちたその瞬間から、グルヌイユは殺され殺すという運命を担っているというのが、この物語の始まりである。当然の帰結として、グルヌイユの人生は、愛情と憎悪を巡る止まない循環となる。愛情への希求が殺人という「至福の瞬間」を産むのだ。「愛を呼びさます人がすなわち犠牲者となる」のである。そして、その憎悪と復讐こそが、映画においては描ききれていない重要な要素である。

グルヌイユは身体的命こそは抹殺されなかったけれど、人間としての匂いというエッセンスを永遠に失うことになる。彼には匂いがしない。体臭がないのだ。その不気味さを人々は直感的に察知し、18世紀パリの貧民窟の悪臭の只中で、彼は捨てられ、施設をたらい回しにされ、虐待される。けれども、極めて皮肉なことに、彼は生まれながらに超越的嗅覚を持ち、森羅万象の匂いを嗅ぎわけ、匂いのカタログによって世界の秩序を自己構築していく。やがて香水調合師となった彼は、その異能を発揮させて、人心を支配するにいたる。けれども、いかに外界を卓抜な嗅覚と香水調合によって支配しようとも、内界にはその匂いの片鱗すらなく、つまり、彼の存在は無なのである。

それは、産声を挙げることによって、「愛ではなく生を選びとった」者の定めだった。永久に剥奪された愛と母親殺しの罪は、彼をして神のごとく世界を支配しうるほどに生かせていく。けれども、自ら作成した香水による自分の人工的体臭も、他者を思いのままに操作しうる香水も、所詮は永続するものではなく、やがては胡散霧消してしまう仮初めのものにすぎない。「遅かれ早かれ失う羽目に陥る」としても、「手に入れて失う方が、はなから拒むよりも望まし」く、「手に入れてのちに失うことは、いまだに経験がない」彼は殺人を繰り返していく。

殺害された処女の匂いから作られた香水は、彼を処刑台へと導き、人々に法悦とエロスの饗宴をもたらしていく。グルヌイユへの憎悪に沸く群衆が処刑台を取り巻くシーンは、映画のなかではピークをなす映像である。トム・ティクヴァ監督がこの映像にどれだけのエネルギーを注いだかが容易に想像できる。

この物語の顛末をここで暴露しては、興醒めであろう。けれども、これだけは記さないではいられない。グルヌイユは、結局のところ、存在と無存在の痛みから自身を解放し、宿命としての殺人を贖罪する方法を選択することになる。彼が人生を費やして構築した秩序-香水-を用いて、彼は贖罪と救済を得るのである。回顧的に物語られるグルヌイユの生涯は、その方法によって幕を降ろす。

嗅覚という原始的感覚を言語的に表現することは至難である。その描写できないはずのものを、物語の限りを尽くして描き、それが名著となりえたのは、それが単なる殺人者の物語ではなく、人間の存在を問う哲学的寓話として成功したからにほかならない。だからこそ、映画人を駆り立てて、もうひとつの感覚である視覚によって、その優れた寓話を描こうと鼓舞させたのは当然である。『パフューム』は、文学と映画という芸術媒体の可能性と限界、差異を吟味できる二重の感動を与えてくれる。


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