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『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』岡田芳郎 (講談社)

世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか

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「忘れ去ったのではない。忘れたふりをせざるを得なかったのだ。」

小学生のころだったと思う。山形県酒田市の中心街が燃え広がる様子を伝えた夜のニュースは、今でもよく憶えている。強い西風にあおられて、一晩で新井田川までの22.5ヘクタールを焼き尽くした。原因は映画館の漏電だったようだが、隣りの大沼デパート(地元老舗百貨店)がそのロゴもあらわに炎に包まれている映像が目に焼き付いていて、あいまいな記憶の中でこの百貨店が火元と思い込んでいた向きもある。

火元は「グリーン・ハウス」といい、淀川長治荻昌弘に「世界一」と評されるほどの映画館であった。その土台を作った佐藤久一さんが、この本の主人公である。酒田大火のニュースで聞いたあの映画館がどんなものだったのか、またその支配人がどのようなひとであったのか、これまで聞いたことがなかった。

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久一は1930年、山形県酒田市の金久(かなきゅう)酒造に生まれる。清酒「初孫」の醸造元だ。父・久吉は絵に描いたような地元の名士で、市議会議長や商工会議所会頭を歴任したほか、テニスの振興につくしたり、芸能好きが高じてダンスホールや映画館を経営した。そうした環境と久一自身の興味が相まって、1950年、20歳で大学を中退して、父が経営する映画館「グリーン・ハウス」の支配人となる。

無料冊子を制作したり、館内は清潔第一を信条に掃除を欠かさず、従業員への心配りも十全で、なにより作品の選定にあたっては試写会に必ず足を運び、淀川長治荻昌弘ともそんなかで出会ったようだ。1960年には東京と同時に『太陽がいっぱい』が公開され、1963年「週刊朝日」で、「港町の"世界一デラックス"映画館」と紹介されるようになる。館内に設けた喫茶店には地元の文化人が集まるようになり、佐藤十弥、太田清蔵、吉野弘らによる詩誌『緑館』はここに生まれたようだ。

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経営は順調だったが、1964年、久一は支配人の職を辞して東京に出る。ひょんなことから食の世界に入り、3年後には父が始めるレストランの支配人として酒田に戻る。自ら包丁を握ることはなかったが仕入れからメニュー作り、サービスに心を尽くし、1973年には新たにフランス料理店「ル・ポトフー」をオープンさせる。レストランを「食の劇場」として、素材やサービスへこだわりを尽くすようすは、客の満足をなんとしてでも引き出そうとする執着にもみえるが、開高健土門拳丸谷才一山口瞳らが通っては、エッセイなどにもその名を記した。マダム役としてサービスを担った鈴木新菜(にいな)さんは文芸誌『骨の木』の同人であった詩人・鈴木泰助を父にもち、佐藤三郎、佐藤十弥などが若くして亡くなった仲間の愛娘を訪ねて足を運びもしたようだ。

久一は「知らず知らずのうちに人に夢を見させる、不思議な才能」を持ち、言い過ぎかもしれないが、と前置きしたうえで、著者の岡田芳郎さんは「詐欺師的なセンスがあった」と書く。いつも予約客でいっぱいで、従業員や経営陣もいっしょになって毎夜「食の劇場」の幕をあげ続けたが、80年代後半にはいよいよたちゆかなくなり、久一は酒に溺れ、1997年、67歳で亡くなる。


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改めて、書名にあたる。「世界一の映画館と日本一のフランス料理を山形県酒田市につくった男はなぜ忘れ去られたのか」。一族の家業の盛衰や自身の女性問題もあったが、名家に生まれ、名誉や財産に関心はなく、映画とレストランという二つの劇場の中で自らに課した役柄に没頭し、これほどに一時代の文化を担ったひとを、地元の誰もが忘れたことはなかっただろう。市の功労者として名があげられたこともあったが、酒田大火の火元の関係者であることで退けられ、また市民も、大火前の誇りと華やぎを、そこで封印せざるを得なかったのだと思う。

30年を経て、酒田市は映画による町おこしを始めた。グリーン・ハウスを、久一を、忘れ去っていたわけではない、忘れたふりをしなければ過ごせない時間があったのだと、町がようやく語りはじめたように感じる。時を同じくして、酒田や久一とは直接ゆかりのない岡田芳郎さんが、丹念に取材を重ねて外からの目としてまとめられたこの本で、久一の生涯に、この30年をはさんだ酒田の過去未来の時の流れを重ねて見ることができるように思う。

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