書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『演劇都市ベルリン』(れんが書房新社)

03_berlin

[劇評家の作業日誌](3)

20世紀の歴史を圧縮した感のあるベルリンという都市で演劇を見る−−この魅力的なプランを徹底し、かつ論じ切ってしまった書物が刊行された。それが『演劇都市ベルリン−−舞台表現の新しい姿』である。

著者の新野守広氏は気鋭のドイツ文学者にして演劇批評家。文献を渉猟した研究実績を懐ろ手にベルリンの劇場を回遊し、時代を読み取る批評家のまなざしが個々の舞台に生気を吹き込む。著者は言う−−「演劇は小説や映画と違って、舞台の体験からすべてが始まる。舞台は持ち運びはできず、簡単に輸出入もできない。……舞台を記述する作業は、結局、現代の生活スタイルとの矛盾を引き受ける作業だ。この矛盾のなかに、ローカルな表現を越える演劇の可能性があると考える。」(4頁)こうして歴史的奥行を持つと同時に、個別の舞台のありさまを生き生きと活写する本書が誕生した。両者の資質を兼ね備えなければ、こんなダイナミックな本はとうていできなかったろう。その意味では、研究と批評の見事な結合というべきである。

ベルリンは世界でも稀有な都市だ。1930年代に登場したヒトラーによって、この都市は世界中が注目することとなった。ただし歴史の悪夢を撒き散らす発信源として。戦後、社会主義国になった東ドイツドイツ民主共和国)は1961年に建設された「ベルリンの壁」によって、再び悪夢を招来した。ベルリンは戦後の冷戦の象徴的な都市となって、以後30年近くも世界の暗部の温床と化したのである。本書がベルリンの都市の来歴から始まり、その悪夢を振り払おうとして1995年の国会議事堂を梱包したクリストのパフォーマンスが記述される(25〜6頁)のも、ベルリンという街が本書の舞台であるとともに、生きた歴史が参画する場であるからである。

歴史の負性が刻印されたこの街に生きる者たちが演劇という道具を使う時、その負性がバネになっていることは言うまでもない。本書で中心的に論じられているフランク・カストルフは、まさにその負性を想像のエネルギーに転化した傑出した演出家だ。彼が芸術監督を務めるフォルクスビューネ(民衆劇場)は、東ベルリンでももっともエネルギーに満ちた街ローザ・ルクセンブルク広場にある。かつて東独が社会主義建設に燃えていた頃、この劇場は若い労働者文化の拠点であり、由緒ある劇場だった。が、社会主義崩壊後、老朽化したベルリンの「廃墟」を代弁するような趣きさえあった。

この劇場が蘇ったのは、カストルフを芸術監督に迎えた1992年からである。彼は「ドイツ社会が生み出したやり場のない怒りを示す」(151頁)。東独のテイストを武器に、巨大な資本主義の権化たる西側に食い潰されそうになった「東」を愛着をもって、頽廃と紙一重の挑発的な舞台を放つのだ。わたしも幾度かこの劇場で舞台を見たことがあるが、俳優の挑発的な演技にアグレッシブに対応する観客のエネルギーに言い知れぬ感銘を覚えたことがある。決して取り澄ました態度ではなく、かといって知的スノッブを装うわけでもない。なんともラフで、ざっくばらんとした応対なのだ。

他方、歴史に目をやるならば、この街に活躍した二人の「巨匠」の存在は当然、視野に入ってくるだろう。その二人とはベルトルト・ブレヒトハイナー・ミュラーである。新野氏のドイツ演劇研究の蓄積がいかんなく発揮されるのはこの二人についての記述だ。ナチ支配時代に亡命生活を送ったブレヒトが帰国するのは1949年。だが彼の帰国は順風満帆で受け容れられたわけではなかった(57〜8頁)。これは案外見落とされがちなところで、戦前と戦後のアヴァンギャルドをつなぐはずのブレヒトの存在が「実験精神を嫌う東ドイツ指導部」によって排斥されたたのだ。そしてブレヒトの死の1956年に入れ代わるようにしてベルリンに住み着いたのがハイナー・ミュラーだった。この交替劇もまた、ベルリン劇場の役者交替を思わせる。だがブレヒト同様、ミュラーもまた『移住した女』(61年)を契機に国家から排除されていく。

この二人の芸術家の苦難はそのまま社会主義国家の下での演劇活動の困難さを物語るだろう。1977年に発表された『ハムレットマシーン』は、シェイクスピアという権威を盾にしたミュラーのぎりぎりの選択だった。ベルリンの壁が倒壊し、ドイツ統一の歴史の結節点となった1990年に『ハムレット/マシーン』がミュラー演出で上演された。「ローカルな表現を越える演劇の可能性」を探る意味でも、きわめて重要な記述になっている(91〜103頁)

80年代末にたまたまベルリンでのんびりした留学生活を送っていた著者が、偶然「壁の崩壊」という事件に出会い、その場で感じた熱にうなされるように街を彷徨し、劇場に入り浸っているうちに誰も経験できなかった歴史の一回性に立ち会う幸運に恵まれた。それが本書の出発点になったことは間違いない。ただそれを一回だけの「幸運」に留めず、その後足繁く通い続けた執念が、ミュラー以後の新世代の鉱脈を発掘に至ったというのは、本書を貴重なものにしている。前述したカストルフをはじめ、ヨハン・クレスニク、クリストフ・マルターラー、さらに若いトーマス・オスターマイヤー、サシャ・ヴァルツといった才能をいち早く日本に紹介したのも新野氏だった。のみならず、彼らの戯曲の上演や来演まで含めて尽力してきた精力的な活動も並行させている。上の世代がシュタインやグリューバー、パイマンといった巨匠に関心が惹かれるのと引き換えに、彼は明らかに「その後」を志向した。これもドイツ演劇研究の「次世代」のなせる業だろう。

しばしば海外の演劇ガイドは個人の力によってなされてきた日本の通例にならうなら、ブレヒト戯曲の個人訳という偉業を成し遂げた岩淵達治教授の後続世代では、今後の研究・批評は新野氏によって切り開かれるのではないかという予感と期待を抱かされる。そんな興奮に誘われる「歴史的快挙」の書物なのである。

巻末に付されたミュラー自身の『ハムレット/マシーン』の詳細な演出台本が掲載されていることも嬉しい。