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『国際主義の系譜−大島正徳と日本の近代』<br>(早稲田大学出版部)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 国際社会学で「グローバル・ナショナル・コミュニティ」のバランスのなかで考え、環境学で「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」と教えられても、いまの世の中を考えるとなんら違和感はない。しかし、1916年(大正5年)に『世界心国家心個人心』を著したとなると、なぜこの時代にこのような本が書けたのか、思わず問いただしたくなる。

 本書は、その著者で、教育を通しての国際協調を希求した大島正徳の伝記である。大島正徳(1880-1947)といっても知る人はそれほど多くないだろう。1937年に東京で開催された第7回世界教育会議の日本事務局事務総長を務め、戦後は教育刷新委員会委員として教育改革に尽力した人物である。そのあいだの戦中には、比島調査委員会委員としてフィリピンで調査をおこなっている。大島の業績があまり知られていない背景には、世界教育会議が「忘れられた国際会議」であり、執筆した『比島調査報告』が久しく「幻の報告書」であったことがある。そして、教育刷新委員会委員に就任して10ヶ月もたたないうちに肝臓癌で死去している。

 大島の全盛時に開催された第7回世界教育会議は、3年後の東京オリンピック(中止)の「前哨戦」とも宣伝され、日本が主催する初の本格的な国際会議であった。しかし、開催前月の7月7日に廬溝橋事件が勃発し、中国代表団は参加をボイコットした。「教育を通じて戦争を廃止し、国際間の諒解を生ぜしむる」ことを目的とした会議が、戦争加害国日本で開催されたことに、大島の不幸があった。会議が成功であっただけに、準戦時下の日本ではその成果を強調することに矛盾があった。『比島調査報告』も「戦時下の占領地に対し短期間に行われた学術研究としてはきわめて高い水準」と今日評価される内容にもかかわらず、占領地行政遂行のために利用されることもなく、軍政当局に黙殺された。ともに、時局にそぐわなかったためである。

 本書の著者の後藤乾一は、これまでインドネシア独立戦争に参加した市来竜夫や南方調査の制度化に尽くした原口竹次郎といった、それほど名の知れていない人物の伝記を通じて、文献史料だけでは充分に語ることのできない「日本人の東南アジアに対する認識や具体的関わりについて研究」してきた。その延長として日本人の国際認識の問題があり、国際主義者大島正徳の伝記を通じて、なぜ「忘れられた国際会議」になったのかを明らかにすることによって、日本の近代を問おうとしている。

 歴史研究者にとって、テーマとする時代や社会の常識を知ることがひじょうに重要である。なぜなら、われわれはいつもいま自分が生きている時代や社会を通してしか、過去をみていないからである。しかし、いまを生きる研究者が過去の常識でみることは困難で、その社会を透徹した目でみていた過去に生きた人を探し出す方がてっとり早いだろう。時流に乗ることなく、冷めた目で社会をみていた大島正徳は、国粋時代のなかで国際協調を唱え、不幸であったかもしれない。しかし、いまに通用する「世界心国家心個人心」を90年ほど前に唱えた人の伝記を読むことのできるわれわれは、幸せということができるだろう。

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