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『新日本現代演劇史〈2〉安保騒動篇 1959‐1962』大笹吉雄( 中央公論新社)

新日本現代演劇史〈2〉安保騒動篇 1959‐1962

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「<劇評家の作業日誌>(47)」

大笹吉雄氏の『新日本現代演劇史』の刊行が始まった。すでに2冊まで出版され、今後も4ヵ月に1冊のペースで続き、来年の上半期には全5巻が完結する予定である。


 本演劇史は、実は8年前にひとまず完結していた。本書は第2期に当たる。第1期は白水社版『日本現代演劇史』である。明治の初めから昭和29(1954)年までの90年弱が扱われている。ただし、これは著者の意向で「完結」したわけではなく、版元がこの大著を出し続ける体力がないとのことで、中途で打ち切られたものだった。まことに昨今の出版不況を物語る一面でもあるが、「その後」を書き続けていた著者の意向を汲んだのが、新たに版元を引き受けた中央公論新社である。こうして続編がようやく日の目を見た。

 第1期の全8巻は、1985年に第1巻が出てから、実に16年の歳月をかけて刊行された。初出の連載が雑誌「新劇」で始まったのが1979年4月号だから、第1巻に漕ぎ着けるまで丸7年、つまりほぼ4半世紀にかけての偉業だった。A5版で、平均6、700頁にもなる大冊をおいそれと出版できる版元はそうない。その意味では、白水社という中堅出版社が出し続けたこと自体、壮挙と言えるかもしれない。

 かつて井上ひさしは、大笹演劇史について、「誰かがやれねばならないことを半生かけてやっている」と賛辞を送った。扇田昭彦の言う通り、まことに「長距離ランナー」の面目躍如たる仕事ぶりである。

 ここで新演劇史の特徴を記しておこう。

 本書では、各年ごとの編年体で綴られ、ジャンル別の個別舞台について劇評が収載される。そこに著者自身の主観的な価値評価はくだされない。最終的な判断は読者にゆだねるというのが演劇史を記述する大笹氏の一貫した態度だからである。

 その方法として、著者は複数の新聞劇評を徹底的に読み込み、そこからもっとも信頼できる劇評を選びとる。水面に浮上する一部の底には捨てられた膨大な資料があることが推察される。ここで選ばれた新聞は、朝日、毎日、読売はもとより、東京新聞に掲載さた劇評が多いのが特徴だ。

 東京新聞はかつて「都新聞」と呼ばれ、芸能記事に関してはもっとも充実した紙面を形づくっていた。著者によって選びとられた劇評群は、舞台や時代へのもっとも的確なコメントとして立ち上がってくる。劇評の選択と配列そのものが、著者の演劇への考え方になっているのだ。これは芸術の歴史記述として、一つの方法であろう。

 それが成立した理由は、当時は個性的な劇評家が揃っていたことだ。しかも今ほど舞台の数も多くなかったから、劇評家は歌舞伎から新派、新国劇、新劇、さらに女剣劇から浅草レビューまで、多様なジャンルを幅広く見ることができた。そうした劇評家、戸板康二安藤鶴夫三宅周太郎らの書く古典的な素養に裏打ちされた劇評は、とりも直さず「文学」としての劇評だった。

 彼らのポリフォニックな「声」を大笹は編集者として効果的に並べ、相互が交差し反響し合って、混沌とした時代空間を浮かび上がらせることに成功している。この方法が、本書を魅力ある演劇史に仕立て上げた。

 多様なジャンルを網羅する視点も、本書の特徴だ。

 例えば、今や絶滅してしまった浅草の大衆芸能が、活力ある劇場文化として生き生きと活写されている。とくにデン助劇団、脱線トリオてんぷくトリオなどを含めて漫才、落語などが劇場を賑わせていたこと。彼らが舞台で活躍していたのは、50~60年代前半までであり、彼らが劇場を去って、やがてテレビに活動の場を移すのはその後だ。ここにはメディアの大転換をもたらした時代の相が見えてくる。

 演劇史を読む醍醐味は、過去に起こった事象を現在に引きつけながら、その断絶や連続性を読み取っていくことである。戦後の混乱が終結し、「もはや戦後ではない」と経済白書に記された1955年度(これは第一巻のサブタイトルにもなっている)。演劇界もまた戦後に登場する幾人もの劇作家を生んでいった。三島由紀夫安部公房、八代静一、福田善之、宮本研といった面々は、今では演劇史に残る大家になったが、当時はまだ新鋭にすぎなかった。彼らの活躍は、戦後演劇のパラダイムを形づくっていった。

 

 その推移が本書を読み進めていくと、連続した歴史として浮かび上がってくる。だが同時に、その後の着地点もわたしたちは知っている。60年代中期から後半にかけて擡頭してくる、いわゆる「アングラ演劇」はまだ産声を上げていない。辛うじて新劇の異端として「青芸(青年芸術劇場)」が1961年に旗揚げしている記述は認められるが、それがどれほどの意味を持っていたかは、その時点ではまだ判明していない。

 この「新」編の第二巻は、1959年から1962年までの4年間が対象となる。この時期の最大の争点は、「60年安保」であろう。戦後史の大転換期であると同時に、その後の日本の進路を決定したのが、「安保」をめぐる闘争だった。

 では当時、演劇はどのように歴史と対峙したか。

 本書では国会周辺の記事が拾われているが、なかでも興味深いのは、演劇雑誌「テアトロ」の6月号、7月号で新劇人の「声明」が発表されていることだ。政治的発言を厭わぬ演劇人がいて、それをフォローする専門誌が存在した。

 こうした政治的局面に呼応した舞台は、2年後に発表された福田善之作『真田風雲録』(千田是也演出)だった。新劇合同公演として上演された『真田風雲録』は、反安保闘争の敗北を総括した舞台であり、徳川=体制、豊臣=旧左翼、真田十勇士新左翼といった図式が、当時話題になった。

 

 だが、本書でこの舞台に関する紹介資料はこの画期的な舞台を的確に語るのに十分ではない。そしてこれが、大笹方式の記述の弱点である。 著者による論評がなく、資料そのものが少ないとすれば、当然内容的に薄くなる。演劇史は、個別の事象(舞台や劇作家)へ現在から見た総括的な評価を与えることではないか、と考えるわたしは、大笹演劇史に物足りなさを覚えるのも確かだ。

 

 劇評家には、思想やイデオロギーが問われる局面がある。60年安保は、まさにその場面だったろう。その意味で、「安保騒動編」という副タイトルには違和感をおぼえた。

著者に確認したところ、これは編集者が付けたもので、著者自身も指摘されるまで気がつかなかったという。だとすると、ずいぶん呑気なことだが、このタイトルには、「安保闘争」という歴史的事象に対する姿勢、思想的構えが明確に含まれている。それはやはり「気がつかなかった」ではすまされない。

 現在に近づけば近づくほど、歴史への価値観は問われる。客観主義、他人の言説で代弁できない発言を求められる。そして今後の大笹演劇史の最大の課題は、現代という時代を演劇史家としてどのように捉え、どう関わったかを明らかにすることであろう。

 第2巻から大笹氏が実際に見た舞台が含まれるという。その意味では、次巻以降は、まさに著者にとっても同時代の体験である。これまで記録として客観化できた歴史が、これからは自分をも参与する歴史空間に身を置くことになる。そこでどう記述が変わってくるか、それもまた続巻への尽きせぬ興味を掻き立ててくれる。

 

 ともあれ本書を通読して気がついたことは、ほとんど誤植がないことだ。これは一見些末なことのように思われるが、歴史を扱った本書のような性格をもった場合、きわめて重要なことである。

 

 しかも新聞記事には、誤記や執筆者の勘違いなども多く散見される。これも引用にさいして適宜訂正されている。これはよほど校閲がしっかりしているからであり、歴史材料の正確な提出に対して著者がいかに神経を払っているかの証左であろう。 

 今村忠純氏は、この引用の表記について「原典にあたらなくともこの本から(信頼して)孫引きできる」と言っていることは、案外重要な指摘だろう。

 もとより、演劇の歴史を記述することは、並大抵の仕事ではない。わたしも大学などで明治以降の近代演劇史を講義する時、ほとんどの項目が網羅されている大笹演劇史にどれほど助けられたことか。目次を見れば、おおよそ本の概要が知ることができる。その意味では、これほど綿密で意を尽くした目次=項目をわたしは知らない。

 この演劇史は通読するだけでなく、一種の事典でもあり、小項目に当たる時に役に立つ。その意味では、これから、本演劇史を土台とした「演劇思想史」が書かれるべきだろう。


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