『名曲悪口事典』ニコラス・スロニムスキー編(音楽之友社)
「ベートーヴェン以降の名曲悪評集」
批評家、という職種がある。個人的につきあえば立派な人格の方々だが、一般的にはあまり歓迎されない場合が多い。そうした大先生のご意見を拝聴、拝読させていただくのは興味深いものの、自分自身が批評される側に立たされるのは、なかなかしんどい。ほめて戴いた場合は「この先生はなかなか洞察力するどく、優れた審美眼をお持ちだ」と感じるが、けなされた日には「人のあらを探すことに喜びを感じる心の狭い人物に違いない」とでも思わないことには、気持ちの持って行きようがない。ほめる場合でも単にほめっぱなしではなく、どこかに「他の人は知らないが、ボクは君が犯した凡ミスに気づかなかったわけではないのだよ」という気持ちがにじんだ一文がまじったものであることが多い。
批評家にとって欠かせないのは“発表の場”だろう。なるべく多くの人の目にとまり、社会的な影響力までもが生じるようならば、批評家として幸せな気分になるに違いない。しかしそこには同時に大きな責任も生じる。デビューしたての新進アーティストの場合では、その後の人生が左右されることさえあるだろう。
芸術といえども究極的には「好きか嫌いか」の世界だ。犬が嫌いな人に「あなたの感性は正しくない」と批判しても無駄だ。「焼き鳥は塩で食べなければ本物とは言えない」と叫んだところで、どうなると言うのか。しかしこれが印刷され、衆目を集めるようになると、それが一般常識かのようになりかねない。マスメディアの恐ろしいところだ。
あきれるほど辛辣な批評家の罵詈雑言を馬耳東風のごとく聞き流し、自分の芸術を高めていった巨匠は多い。だから巨匠なのだ、という論法も成り立つだろう。他人の意見に左右されず、自分を信じる力に恵まれていたに違いない。ベートーヴェン以降の音楽家に対する酷評を集めた『名曲悪口事典』を読むと、良識ある?批評家として、よくここまで書けるものだ、と感心してしまう。私たちの価値観では当時の評価が妥当とは思えないが、書いた本人は「こと音楽に関しては私の方がよくわかっている」と信じて発表したに違いない。
しかし「何をどうけなしているか」というところから、当時の人々の好みや困惑が感じられる、なかなか興味深いデータだ。訳も簡潔で読みやすい。外国語の批評はまわりくどく、難解な形容詞がこれでもかとばかりに羅列されているものが少なくない。いくら熟読しても、結局何が言いたいのかわからない批評にもしばしば巡り会う。しかし「これも文化の一端なのだろう」と思えるようになった今日この頃である。