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プロの読み手による書評ブログ

『ひとり日和』青山七恵(河出書房新社)

ひとり日和

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「あたし小説」

 典型的な「あたし小説」である。


 「あたし」はかつての私小説の「わたくし」のように悲惨でもなく、偉そうでもなく、重くもないのだが、なぜかそのまわりからはふわふわと物語が発生してしまう。むろん、「あたし」であるからにはオンナが語り手なのだが、オンナというものは(たとえば筆者を含めて)男の中にも住んでいるから、誰にとっても人ごとではない。誰でも―あんちゃんでも、おっさんでも―「あたし」な気分になりたいときはある。「あたし小説」はこちらのそういう心理にヒットする。

 「あたし小説」の主人公はだいたいは少しだけ可哀想だったりする。お金がない、とか。男運が悪い、とか。好きな野球チームが弱い、とか。そういうわけで、「あたし小説」の見せ場はたいがい、男にひどい目に合わされる場面となる(でも、ものすごくひどいわけでもない)。『ひとり日和』の中で、思わず「おっ」と筆者が身を乗り出したのも、主人公のカレ氏である藤田君が「俺、しばらく来ないよ」と切り出すところだった。

 

わたしは聞かないふりをする。昆布茶の入ったマグカップをふうふうと吹いている。

「チー。聞いてる?」

「聞いてなあい」

「聞いてるね」

 藤田君は、鼻で笑った。その笑い方にわたしはひるんだ。知らない、恐い人のように見えた。

「もう、しばらく来ないつもり」

「……」

「ということで」

「なんで」

「まあ、いろいろ」

「なんなの」

「だから、いろいろ」

「聞いてなあい」なんてセリフ、芸が細かい。「知らない、恐い人のように見えた」というあたりには、昔ながらの小説作法をしっかり押さえた「目」がある。そして「ということで」とまとめようとする藤田君の、なんというか、図々しさがいい(もちろん、藤田君がいい人だ、という意味ではない)。

 「あたし小説」の読み所は、どうでもいいようなふらふらした自分の気持ちに、いちいち語り手がつまずいてしまう危うさだ

 いつの間にか、執着心が生まれている。このねばねばした扱いづらい感情は、喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか。

…なんて、ことをいちいち語り手はつぶやいてみせる。私小説だとこうはいかないだろうな、と思う。オトコというのは、人前では無口なくせに、文章となると大声になるのだ。

 この『ひとり日和』はたいへんいい小説で、青山七恵、もっと読みたいな、と思わせるのだが、電車の中で読めるようなこのふわふわした感じを維持するのは意外とたいへんだろうな、とも思う。それに長編となると話は別だ。ほかに「あたし小説」がうまそうな作家は何人か思い浮かぶが、その中でもちょっとひねりと毒のある大道珠貴とか絲山あき子といった書き手を、筆者はとりわけ応援している。

 なお、芥川賞の選評で「盗癖の描写がいい」というのがあったが、そこはこの小説の、あれこれと仕組んである感じがやや強く出過ぎて感じられたところで、筆者はどうかなあと思った。

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