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『Memoires 1983』古屋誠一(赤々舎)

Memoires 1983

Aus den Fugen 脱臼した時間

→『Memoires 1983』     

→『Aus den Fugen 脱臼した時間』

自死した妻のメモワール

金属のように光る馬の皮膚、ピンと背筋を伸ばしてまたがる女性、

彼女の張り出した額、凝視する鋭い視線。

ただならぬ予兆に充ちた表紙写真だ。

背後が闇で、この場所についてなんの手がかりも与えていないことが、

その気配をより強めている。

馬に乗っているのは著者・古屋誠一の妻クリスティーネ。

ふたりは1978年、オーストリアで出会い、結婚し、息子をもうけた。

だが、クリスティーネは精神を病み、1985年、アパートの窓から投身自殺してしまう。

本書はクリスティーネが残した手記と古屋の撮った写真とで構成されている。

追憶の旅はいつも1983年に行きつくと彼は書く。

彼女に異常な言動が目立つようになったのが、

亡くなる2年前にあたるこの年の春だったのだ。

手記にはクリスティーネのさまざまな思いが見え隠れする。

母親との相克、息子への愛情、夫への不満、生活苦、

自分の行く道が定まってないことの焦り……。

彼女は女優になろうとして訓練を受けていたが、

行く手はまだ見えていなかった。

クリスティーネの写真がいちばん多いが、

入っているのはそれだけではない。

彼女の母親、息子の光明、アパートの室内、街路、

田園風景、屠畜現場、遊園地、森、公園……。

日常と非日常のシーンが劇的にならないよう淡々と、

細心の注意を払って並べられている。

だが、クリスティーネの写真が出てくるとき、

見る側の意識はどうしようもなく揺れる。

彼女がもう生きていないことを思い、

そうなった痕跡がどこかに認められないだろうかと目を凝らす。

そして逆に死者から見つめられているような眩暈に襲われる……。

古屋はこれまでクリスティーネのポートレイトを中心にした写真集を6冊編んできた。

生活していた相手を、こんなにもたくさんのフィルムに収めていたことに驚くが、目的があって撮っていたのではないらしい。

撮ったフィルムはそのまま放置され、

彼女が亡くなるまで現像されなかったのだ。

写真からは、クリスティーネの著者のあいだに、

写真を介した関係が存在していたのが感じとれる。

あいだに写真が挟まることで相手との距離がうまくとれたり、

コミュニケーションが図れたりする、

そんな事情があったのではないかと、想像できる。

だから彼女にカメラをむけてシャーターを切ることが重要なのであって、

撮れた写真をどうするかはあまり問題ではなかったのかもしれない。

もしクリスティーネが死なずに生きていたら、

これらの写真はいまだ日の目を見ていない可能性だってありうるのだ。

写真は「写す」「現像する」「出来た写真を見る」という三つの時間で成り立つ。

このしごく自明な、しかしあまり意識されない事実を、

古屋誠一の仕事は改めてわたしたちの前に差し出す。

ほかの写真ではアマルガム状になっていて分離しずらい時間が、

ここでは鮮明度を増し、自己主張してくるのだ。

それはほかでもない、

写真が現像されたときにクリスティーヌはすでになく、

死者として写真に成ったからである。

この写真集を開く者は、なぜクリスティーネは死ななくてはならなかったのか、

という問いを抱いて写真を見、手記を読むだろう。

しかしその謎はミステリー小説のようにするすると解かれることはなく、

解答への執着はしだいに消え、問いすらもあわくなっていく。

そして、それと引き換えに浮上してくるのは、写真に流れている時間だ。

それが切実なものとして目につきささってくる。

「手記の存在を彼女の亡き後に知ったのだが、それを読むことはなかった」

と古屋は書く。

また先に出た6冊について、

「悲哀の主人公を生み、僕の無能さや、さらに覗き見的悦楽主義を指摘することにもなった。「事件」の当事者の一人であること、そしてそれを編む者でもあらねばならないということへの限界を感じはじめていた」

と語る。

手記を収録した今回の作品集は、これまでの古屋からの一方向の行為に、

撮られた側からの声を重ねて共鳴させようという意図があったはずだ。

クリスティーネの言葉は切実さと緊迫感に満ち、

本書を建築物のように立体化させるのに成功している。

だが、ここで改めて実感するのは古屋のペースのほうなのだ。

過去の時間がさまざまな形をとって現在に混入し、

変化をもたらすさまを見つめる視線が一定している。

その執拗で忍耐強い態度に目を瞠るばかりだ。

「写す」は一度きりしか来ない。

「現像」もおなじく二度目がなく、

「出来た写真を見る」時間だけが何度も繰り返しやってくる。

見ようと意識して見ることもあるし、

その気でないのに視界に入ってしまうこともあるが、

そのたびにおなじことを思うだろう。

どうして、なぜ、彼女は逝ったのか。

まったくおなじことを思うというのは、あり得ない。

人の内部は細かく変化し、流れていて、

前に見たときと感情のニュアンスが変わったり、

別のことに心をもっていかれたりするのに気付く。

そのような心の変化は写真がなくても起るだろう。

だが写真を介することで、よりくっきりとはね返ってくるだろう。

この写真集が出たのは昨秋だが、

この春、古屋は故郷の三島で大きな個展を開き、

そのときに新たな写真集を編んでいる。

『脱臼した時間』(赤々舎)と題されたそれには、

結婚したばかりのういういしい笑顔のクリスティーネが表紙に使われ、

成長した息子や旅先の写真などが混ぜ込まれている。

バラされ、ジグザグに縫い合わせされた時間の中に、

新たな緊張が見え隠れする。

古屋の生に対する宣言でもあるかのようだ。

意識は不可思議な道筋を描きながら、

生きていこうとする肉体に付いていく。

古屋にとってそのための伴走者が、写真なのではないだろうか。

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