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『映画の世紀末』浅田彰(新潮社)

映画の世紀末

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●「映画との対話 ――映像の思惟学と記憶の政治学

 十九世紀と二一世紀のはざま――映画の世紀――を批判的に解読すること。本書において浅田彰が試みるのは、松浦寿輝蓮實重彦鵜飼哲四方田犬彦とともに、映画をめぐる対話、ディスカッションをクリティカルに組み立てることである。この試みが集団的かつ複層的に記録されているのは、映画が集団によって制作され享受される、すぐれて集団的な芸術文化であるからにほかならない。浅田と対話者は、現代文化における映画の位置や位相を探求すべく、ヴィム・ヴェンダースジャン=リュック・ゴダールアラン・レネジャン=マリー・ストローブダニエル・ユイレ、ミシェル・クレイフィ、クロード・ランズマン、ピエル・パオロ・パゾリーニといった映画作家の仕事の基本的な枠組みと情報を明示するとともに、それを文化的かつ政治的コンテクストに関連させて、「啓蒙的に」議論を展開していく。

 この映画との対話は、したがって、映画をめぐる閉域的な理論的考察であるというよりも、私たちが生きる映画の世紀末――映画はいまだに十九世紀の亡霊でありつづけ、二一世紀を迎えられずにいるのだ――の様相を正確に描出するための、開かれた土台であるといえよう。しかしもちろん、映画がそうであるように、この開かれた土台は、制度的な安易な理解可能性をいささかも意味するものではない。そうではなく、本書において浅田が目的とするのは、映画と思考、記憶、歴史、政治などを貫く問題を、その入り組んだ複層性を通してありのまま提起し、読者をディスカションに組み込んでいくことである(本書は一般的な観衆を前にして展開された映画談義を文章化したものである)。

 浅田の批判はまず、ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』(1987年)を「奇蹟の映画」として徹底的に擁護し肯定することから始まる。浅田によれば、そこにおいては、「時間の結晶」(ドゥルーズ)が、重層する記憶の襞、歴史の裂け目からの光を様々に屈折させて、それ自体の内から輝き出すという映画的な再生が試みられている。そこでは、ベンヤミン的な天使を喚起させる奇蹟が描き出されているとされる。次いで、浅田は、ゴダールの『右側に気をつけろ』(1987)を「膨大な映画史的記憶を突き抜けて忘却にいたること/想起し引用するのではなく反復すること」の実践として捉え、そこに見出される曙光のなかに映画の始まりを宣言する。さらに、ゴダールの『新ドイツ零年』(1991年)が「二〇世紀末から二一世紀にかけての思考と創造の地平」として位置づけられ、その音‐映像から「運動=映像」「時間=映像」(ドゥルーズ)以後の思考の映画の可能性が指摘される。

 次に、ゴダールをめぐって、浅田と松浦の対話が展開される。ここでは、ゴダールにおける音響と色彩の戦略が議論され、映画における技術的媒介の構造について考察される。そして、「名」の問題や「ET(と)」の問題が提起され、そこから「逃走‐線」という主題系の位相が軽やかに描き出される。また、この対話を引き継ぐかたちで、ゴダールにおける「(pas) ça(それ[ではない])」の特異的実践、不定冠詞と定冠詞、「このもの性」と「カテゴリー」(ドゥルーズ)といった問題系が複層的に提示される。そして、映画における引用と反復の関係性や、歴史と条件法的モンタージュの在り方が浮き彫りにされる。

 それに重なるかたちで、浅田と蓮實の対話が展開されることになる。ここでは、ゴダールにおけるヴィデオとフィルム、大文字かつ複数の歴史性、ヨーロッパ史観、アメリカ映画、あるいはTVやメディアなどの重層的な問題が整理される。そして、ゴダール(=歴史)とレネ(=記憶)、ゴダール(=実践)とストローブ=ユイレ(=教育)の対比が、それぞれの思考とイマージュの在り方にそって鮮やかに描き出される。

 ストローブ=ユイレは続く浅田単独の映像‐唯物論に関する考察に引き継がれ、特に、ドゥルーズのイマージュ論――これはフーコーによる思考のアルケオロジーに通じるものである――を背景にして、そのフィルモグラフィーが仔細に分析される。ここでは、その作品が、演劇や小説やオペラの映画と、エッセーとしての映画というふたつのセリーにそって適確に分類され、ストローブ=ユイレの全体像を描写することが試みられる。

 また、浅田と鵜飼の対話では、ゴダールストローブ=ユイレの関係を下敷きにして、パレスチナを主題とした、映像と政治の関係が綿密に考察される。クレイフィやランズマンが導入され、映画における記憶と歴史、図像や宗教や表象といった問題が提起されるとともに、政治映画の可能性の地平、イマージュそのものの力が探求される。

 そして、浅田と四方田の対話では、すでに忘却されつつあるパゾリーニを肯定的に捉えなおし、再導入する試みが展開される。ここでは、パゾリーニにおける詩と言語の問題から、左翼的なものと唯物論的なもの、キリスト教に対する複雑な関係、そしてイマージュ=記号の映画理論的問題にいたるまで、具体的実例と映画作品やテクストに則して、様々な観点から考察と分析が幅広く展開され、その実践が批判的に肯定される。

 本書は、以上のような構成によって重層的に組み立てられている。本書において、浅田と対話者は、数多くの哲学者や映画作家に言及しながら、現代的映画の諸問題を多角的かつ具体的に批判している。しかし、ここに収められたすべての考察には、一貫した問題系の地平が存在している。それは、ドゥルーズの『シネマ1*運動イメージ』と『シネマ2*時間イメージ』によって提起された、「映像の思惟学」と「記憶の政治学」の問題系にほかならない(ゆえに、映画をめぐる対話の多層的な展開が、最終的にドゥルーズ的なコンテクストに回収されてしまう印象が否めないところもあるだろう)。本書の企図は、このドゥルーズ分類学を十分に踏まえたうえで、その先に展開されるべき、ドゥルーズ以後の映画、そして映像芸術の可能性の探求へ向けて開かれている。ドゥルーズが指摘したように、「運動=映像」「時間=映像」以後の、映画における第三の映像の機能と関係性が問題として浮上しているのならば、この浅田と対話者の試みは、さらなる展開が要請されてしかるべきものである(その意味で、浅田が、映画だけではなく、それを取り囲む情報やメディアを批判しつづけていることに注目しなければならない)。本書は、そのための出発点として提示されているといえよう。なお、本書の試みが、浅田と松浦の対談「人文知の現在」(『表象』第01号、2007年)や、浅田と蓮實の対談「ゴダールストローブ=ユイレの新しさ」(『新潮』、2005年5月号)において、さらに展開されていることを付記しておく。

(中路武士)

・関連文献

Gilles Deleuze, Cinéma1: l’image-mouvement, Minuit, 1983.(『シネマ1*運動イメージ』、財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2007年近刊予定) ----- Cinéma2: l’image-temps, Minuit, 1985.(『シネマ2*時間イメージ』宇野邦一・石原陽一郎・江澤健一・大原理志・岡村民夫訳、法政大学出版局、2006年)

Serge Daney, La Rampe, Cahiers du cinéma, 1983. ----- L’Excercise a été profitable, Monsieur, POL, 1993.

Barton Byg, Landscape of Resistance, University of California Press, 1995.

Philippe Lacoue-Labarthe, Pasolini, une improvisation, La pharmacie de Platon, 1995.

・目次

   奇蹟の映画

       奇蹟の映画 ――ヴェンダースベルリン・天使の詩』を見る

   映画の奇蹟

       映画の終わり、映画の始まり

       孤独の力

       ゴダールを語る1 ――松浦寿輝との対話

       ゴダールを語る2 ――松浦寿輝との対話

       ゴダールを語る3 ――蓮實重彦との対話

   唯物論

       ストローブ=ユイレを導入する

   政治

       パレスチナから遠く離れて ――鵜飼哲との対話

   墓碑

       パゾリーニルネサンス ――四方田犬彦との対話


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