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『アントニオ・カルロス・ジョビン』エレーナ・ジョビン(青土社)

アントニオ・カルロス・ジョビン

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ボサノヴァ創始者と、彼の母国の魅力を伝える」

ふとした出来心で買って開かないまま、古本屋行きになる本があるが、この本は幸いそういう運命を免れ、いつか読むだろうと、そのいつかがいつになるかわからないまま、手元に置かれていた。

その「いつか」が、ある日突然やって来た。あまりに暑かったこの夏のせいである。どこか別の場所に気持ちをいざなってやり過すしかないと、書棚を探っていると、この本が目に留まった。ブラジルに思いをはせるのにちょうどいい暑さだ。

イパネマの娘」や「ワン・ノート・サンバ」など、多くのボサノヴァの名曲を作曲したアントニオ・カルロス・ジョビンについて、妹のエレーナ・ジョビンが書いたものだ。癌と診断され静養のためにニューヨークから帰国したジョビンが、ブラジルの家で最後の日々を過す光景からはじまる。三週間後、ジョビンは手術を受けにニューヨークにもどり、そのまま帰らぬ人となった。

ジョビンの妹という以外に、著者について何も知らずに読み出したが、におい立つような文章に引き込まれた。潮のかおり、ふりそそぐ光、花の色、風のそよぎ、魚の味、葉巻の匂い、走りまわる飼い犬、ゴムホースから吹き出す水、子供たちの笑い声……。「ここではないどこか」に連れ去ってくれる、まさに期待したとおりの内容だ。

ジョビンがどんな空気を呼吸しながら、メロディアスで、しかもしっかりした構造を持つ音楽を産み出してきたかが分かる。フライパンとヴィオラフォンを持って行く夜釣りでは、魚がかかるのを待ちながら歌をうたう。あるいは野鳥を観察しながら森を歩く。ジョビンはどんな鳥の特徴にも詳しく、鳴き声をまねて鳥たちを呼び寄せることができる。「森を歩くと曲が丸々と響いてくる」とジョビンは語っているが、彼の楽曲の肌を細かくマッサージするようなリズミカルな刺激は、自然からインスパイヤーされたものなのだろう。

技術面については、クラシック・ピアノを習い、ラヴェルやドビッシーなど近代フランス作曲家の作品を敬愛し、管弦楽編成法を独習するなど、実に正統的なアプローチである。ジョビンの作曲が単なる思いつきではなく、豊富な音楽的知識を背景にした作業であるのがわかる。

ボサノヴァの誕生は、エレーナによれば、アルバム『想いあふれて』が発表されたときである。あるヴィオラフォンの弾き語り歌手にジョビンが惚れ込み、レコーディングを持ちかけた。まだ無名だったジョアン・ジルベルトがその人である。ジルベルトは「偏執狂的な完璧主義者」で、双方が満足のいくものが出来るまで、何ヶ月も引きこもって作業したという。

完成したとき、ジョビンはアルバムの裏に、「このバイーア出身の新しい才能」と書いてジルベルトを賛美した。マスコミがこの文から「新しい才能(ボサノヴァ)」という言葉を拾って使ったことから、「ボサノヴァ」というジャンル名が生まれた。

「大学のキャンパスは、こぞってこの新しい音楽を迎え入れた。ボサノヴァは学生たちの熱烈な議論のテーマだった。若い世代は瞬く間に、この音楽の虜となった。長い間待っていた、自分たちの感覚に合う新しいスタイルを持った、完全にブラジル製の音楽が現われたのだ。ボサノヴァは、彼らの悩みを、真実を、願いを表現してくれた。また中産階級の音楽的才能も、これを機会に国内で開花した。ムーブメントは、まるで火のついた導火線だった」

上記の文章からわかるように、ボサノヴァ中産階級の若者、白人インテリ層を中心に広がった。大衆向けの土着的な音楽か、外から入ってきたクラシックやジャズしかない現状を物足りなく思う層に、ボサノヴァは歓迎されたのだ。

ボサノヴァはパジャマと電話が好き」とはナラ・レオンの言葉だが、ボサノバが路上ではなく室内で生まれたこと、普段着の音楽であるのを、うまく言い当てている。ささやくような声で歌われるのは、彼らが夜な夜なアパートに集まって、近所の苦情を気にしながら作曲したからだという。

それから数年の間に、ボサノヴァは野火のように世界に広がった。ブラジルで愛され、親しまれただけならば味わうことのなかった苦しみと悲しみが、ジョビンを襲う。

このあたりはいちばん印象的で、考えさせられる部分であり、才能ある音楽家のサクセスストーリーに収まり切らない深みを描きだしている。

ボサノヴァは、ジャズのスタン・ゲッツが、アストラッド・ジルベルトと作った共演アルバムによって世界に広まった。このとき、ジョビンはサンバのリズムが活きるような、英語の訳詩をつけるのに苦労している。またボサノヴァが不完全な形で演奏されることが多いのにも、頭を痛めたという。

ボサノヴァが世界進出を狙ったのではなく、ジャズがボサノヴァを見つけて飛びついたのである。ボサノヴァには当時のジャズに欠けていた、リズムと、スイングと、ラテンの情熱があった。彼らはそれに喰らいついたのだった。

ジャズの経由なしに、「イパネマの娘」や「ワンノート・サンバ」が、世界中にこれほど親しまれることはなかっただろう。だが、アメリカで成功したことで、ジョビンは母国で冷ややかな視線を浴びるようになる。自国の音楽をアメリカに売って儲けた人、というわけである。

よくありがちなやっかみと言えば、それまでである。だが、そのような反応が起きてしまう社会の「閉鎖性」は、土着の文化の豊かさと無関係ではない、とも思う。閉じているために濃くなれる。そしてその濃さから、ジョビンはさまざまなインスピレーションを得てきたはずだ。

ジョビンの友人のこんな発言が引かれている。

「ブラジルは、金を稼いだ人間が後ろめたく思わなければならない、情けない国だ」

金儲けが後ろめたいというのは、富は平等に分配されなければならないという原始共産制に近い価値観が未だ生きているということではないか。儲けた人は何がしかの形でそれを社会に還元し、分かちあおうとする。そうでなくては肩身が狭くて居ずらいのだ。突出した才能を持って生また人間には、生きづらいかもしれないが、何にも恵まれずに生まれてきた者には、ストレスの少ない社会のように思える。

やる気のある人が評価され、また評価の結果としていい金を得るという実力主義は、言うまでもなくアメリカ社会が生んだものだ。ジョビンの成功はアメリカン・ジャズとの関わり抜きに語れない。意図してなかったとしても、結果的にはそうなった。背後にちらつくアメリカが本書の内容を立体的にしている。ひとりの天才音楽家について知ることが、アメリカ文化を考えさせるのだ。

山下洋輔が最後に寄せている文書が素晴らしい。彼は1994年のカーネギーコンサートでジョビンと同じ舞台に立っているが、書いているのはコンサート前日の共同記者会見でのジョビンの発言である。

ジャズとの関係を質問されてジョビンは、「ジャズはよく知らない。私は私の音楽をやってきただけです」と答えた。ジャズから何らかの影響を得ていると思っていたから、山下はこの言葉に驚き、また記者たちも納得せずにおなじ趣旨の質問を繰り返した。

だが、ジョビンは同じ答えをし、ついには司会者が寄ってきて、「スタン・ゲッツとのレコードのことを話してください」と耳打ちしたという。それでもジョビンは本当に困惑した顔で、「私はブラジルの、自分の音楽をやっているだけだ」と主張しつづけたというのだ。

これは彼自身の強い確信なのだと思わざる得なかった、と山下は書く。

既存の文化に影響を受けないということは、奥地にでも閉じこもって暮さないかぎり、あり得ない。特に音楽のように無意識のうちに体に入ってしまうものは、その影響を追い払うことは不可能だ。もちろん、ジョビンもジャズを聴いて育っている。それは事実であり、現実だ。だがそれでもなお「ジャズはよく知らない」と言い張るジョビンに、山下は感銘するのである。

「……一人の天才ブラジル人の音楽に、ある日ジャズが接近してきた。それを通じて彼の音楽は世界に広まった。勿論喜びはあっただろう。と同時にアメリカ流に変えられていく自分の音楽に、作曲者なのに印税も払ってもらえなかった現実に、あるいは前述したジャズの優位性をとなえる雰囲気などに直面して、やがて彼はアメリカに対して、ジャズに対して、徐々に違和感を抱いていったのではないだろうか。これが、エコロジーへの生まれながらの関心と共に、アメリカが象徴する現代の世界のありかたへの批判にもつながったのは、彼にとってはまったく自然なことだった。本書はそのことを、ジョビンの愛したブラジルの自然を描くことによって、何度も伝えてくれる」

本書の魅力はこの言葉に言い尽くされている。リオの森や海や光や潮の香りを描写することが、そのままジョビンの音楽の成り立ちを語っている。読み終えて本を置くと、蒸し暑い部屋に一陣の風が吹き抜けた。

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