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『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』保坂和志(草思社)

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

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「思考の散歩道」

「これは自問自答の本です」と最初にある。「私にとって書くことは考えつづけることだ」とも記されている。なるほど、結論と見えたものは、すぐに新しい問いに転じてつぎの章にバトンタッチされる。山頂を目指すのではなく、くねくねと森の中を行くように。

半分を越える第三章あたりから、思考のネジがギリギリと巻かれていく。前の章ではじめられた、広さを称揚する世界観を再度批判した「大は小より脆弱である」や、組織の合理主義に抗して「身内に不幸があったら一日余分に休もう」「ペットが死んで悲しんでいる人がいたらその人の話に耳を傾けよう」と提案する「冷淡さの連鎖」あたりは、まだやや月並みな印象があるが、三つ目の「「命」について」でいきなり思考が離陸する。

「自分が生まれていない可能性」のことを考えはじめるのである。十代の頃からこの気持ちに襲われるようになって、そうすると同じ電車に乗り合わせている人がすべて自分とつながっているような感覚に囚われたという。電車の中のだれかが自分の父か母とすれ違っていたら自分は生まれなかったと思うと、世界の深淵を垣間見た気持ちになった。

もっとも、ふだんは「自分の生まれていない可能性」なんて考えない。考えたらとても日常生活が送れないが、それは「自分に与えられた状況を動かしがたいものだと感じる」人間の心の特性によるものだ。だが、悲劇的な出来事に遭遇すると、その動かしがたさが肥大し、あのときああすればよかった、こうしたら免れたのではないかと思い惑う。

そうした状態のとき、出来事の最中とはまったく別の場所に立っている。状況の外から過去形として俯瞰しているのであり、ということは「自分の生まれていない可能性を考える」ことも同様に「自分が生きている状態をパッケージして、その外に立つという誤りを犯してしまっている」のではないかと思い至る。だが、最後にはこう述べるのだ。

「それにしても「自分がうまれていない可能性」をリアルに感じる瞬間が、吸い寄せられるような魅力を持っていることは否定しがたい……」

くねくねした道を歩いていたら、知らないまにもとの場所にもどっていたというようなエンディングである。だが、もどってしまったから、歩いたことに意味がないというのではない。目的地に急いでいるならそうかもしれないが、歩くことそのものが目的なら、もどることはむしろ必然とも言える。

第四章では、空間と時間は似たものとして混同しされがちだが、両者はまったく別物で比較の対象にはならない、ただ空間は見えてしまうから「わかった」という錯覚をもちやすいが、時間は目の前にないからわかりにくい、と説き、こう結ぶ。

「人間とは自分が生きた、過ぎ去った時間に向かって無数の触手を伸ばす生き物なのだ、と考えてみると、「わからない」とばかり言っていた時間が自分の身体の延長のようになって、自分の生が別の意味を持って新たにはじまるように思われてこないだろうか」

散歩の時間を連想させるような言葉だと思った。散歩の楽しさは歩いている最中にあり、その時間のなかに喜びが詰まっている。本書も筆者の思考の道筋をたどりながら読みすすんでいく時間そのものが楽しく、行きつ戻りつする思考が身体を活性化させてくる。

著者は「自爆テロも辞さず」に分類されうるタイプだと自認していたが、小学校で同じクラスだった女友達からに二十八歳のときに「保坂君は昔から、ぐだぐだ、テンションの低い子どもだったわよ」と言われたという。たしかに最初はだらだらはじまり、しだいにテンションを上げていく、その上げ方の執拗さに「自爆テロも辞さず」の構えがうっすらと漂っていて、読み終えて本を置いたとき、しみじみとはほど遠い熱さが体に残った。


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