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プロの読み手による書評ブログ

『愛の矢車草』『愛の帆掛舟』橋本治著(筑摩書房)

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愛の帆掛舟

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愛の湯豆腐、あるいは昭和の抒情性について

 橋本治のものなら何でも読むという熱心な読者ではなかったので、ぼくは昭和から平成の最初に発表された橋本のこの2冊の短篇集を読んでいなかった。もともと新潮文庫から出たもので、2006年にちくま文庫で再版されたのをきっかけに読んだ。考えてみると、ぼくは最近こんな読書の仕方ばかりしている。作品自体はとうの昔に出ていて、それが新版となっているというものばかりが目に入るのだ。周回遅れの書評で面目ない。

 2つまとめて紹介する。「愛の」と題された短篇が、それぞれ4つずつ入っている。「愛の」は紋切り型の掛詞だ。この紋切り型の題名を堂々と掲げて非凡な小説を書くにはどうするか、というので、小説家としてはまだ駆け出しだった頃の橋本治が考えたのが、「世の中」的には、ちょっとヘン、と思われている題材を取り上げることだった。『愛の矢車草』を例にとると、女子大生が男子学生のマスターベーションを覗く話、中年男が中年女性のパンティを泥棒する話、中年女のレズビアン、そして小学生なのに子供を作ってしまった男の子の話。しかし、読んでみると、びっくりするほど古風で、しかもメルヘン的な作品が多い。冒頭はヘン、最後はメルヘンだ。別にダジャレのつもりもないが、そのあいだをいかにうまくつなぐかに橋本の努力が向けられることになる。

 「ヘン」と「メルヘン」の「つなぎ方」があまりにうまくて、まいりました、と頭を下げたくなったのは、中年女のレズビアンを扱った「愛の牡丹雪」である。主人公は、夫もいれば大学生の息子や適齢期の娘もいる50すぎのおばさん「額田ヤエ」。峠にあるドライブイン「讃岐亭」でアルバイトをしている。そのときに知り合った年下の女性、といってもたぶん30も半ばの、頭を角刈りにしている長距離トラック運転手「笠矧留子」とふとしたきっかけから関係を深めるようになる。ふだん、家のなかで大事にされず、淋しい思いをしていたヤエは、やがて家を出て、二間だけの部屋で留子と暮らすようになる。

 橋本がこのちくま文庫版に寄せた「習作時代のころ」(これがすごくいい文章だ)によれば、この小説を書いたときに念頭にあったのは、菅井きん園佳也子だという。ヤエの顔にはソバカスがあって、そのソバカスは「堆肥置場の古畳」のようだとあるし、一方、「流星号」(名前がいいでしょ?)というトラックの運転手である留子は、他人の話を聞くときの姿が「全盛期の田中角栄」みたいな女性である。つまり、二人とも全然、美しくない。二人のアパートにやってきた娘からは「白豚みたいなレズビアン」だと周りが噂していると聞かされ、「不潔よッ!!」とまで罵倒される始末である。娘の言葉に傷つくヤエだが、その日の夕方になって帰ってきた留子をお風呂に入れ、背中を流し、いつもとは違って大胆にも、きれいな彼女の乳房を「大根や人参や林檎や葡萄を洗い上げる、誠実以外には取柄のない、専業主婦の熟達した細やかな指先」でもみ上げる。夕ご飯の時間がやってきて、身を寄せ合うようにして二人は暖かい部屋で湯豆腐を食べる。外では雪が降り出している。結末部を引用してみよう。

 牡丹雪はフワフワと折り重なって降り積もって、世界中が白いレズビアンで埋まっていくようなそんな宵にヤエは一人、「私は、留子さんがお嫁に行くまではどこにも行かないわ」と言った。

 留子の箸が止まって、その箸の先がブルブルと震えて、それを見つめる視線も止まって、外には雪だけが折り重なって行った。

 ヤエは黙って箸を動かした。

 「おいしい」

 湯気の仲で、その言葉だけが熱い牡丹雪のように、ふんわりと溶けて行った。

湯豆腐がポイントだ。白くて、すこしぼてっとしていて、お湯のなかでプルプル震える湯豆腐は、このシーンの直前に置かれた二人の風呂場のシーンとつながって、彼女たちの肉体の白さを髣髴させる。そして、外では牡丹雪。牡丹雪は白いはずだが、牡丹の連想から少し赤みを帯びているように思われるし、それはお風呂場で上気した中年女の肌の色をも微かに連想させる。牡丹雪と白いレズビアンたちと湯豆腐。なんじゃそれ、というような組み合わせで呆れてしまうが、橋本は、「白豚みたいなレズビアン」のイメージをここで一挙に背負い投げのようにして反転してしまうのだ。「書いていて、当人が呆れた」というこの圧巻のラストシーンにおいて、橋本は「ああ、これが小説を書くということだな」と実感したというが、同じようにぼくはこのシーンを読んだとき、「ああ、これが小説を読むということなのだなあ」と思った。

 ヤエは夫を捨て、年下の「男女」(「おとこおんな」と読む。そういう言葉が昔あったなあ)の元へ走った女性である。留子とは性的な関係もちゃんとある。そのヤエが「留子さんがお嫁に行くまではどこにも行かないわ」と言っているのが切ない。この感慨は、ヤエが実の娘のために結婚資金用にと通帳と印鑑を旧家に置いてから家出をしていることと対応している。ヤエは、レズビアンになっても、古い道徳に生きる、「誠実以外には取柄のない」オバサンであるから、レズビアンの男役(タチ)である留子についても「お嫁に行くまではどこにも行かないわ」などと呟くのだ。

 「おいしい」というつぶやきも、笑ってしまうぐらい、切ない。ヤエは留子との生活をまるでママゴトみたいに営んでいる。彼女はつまり少女なのだ。たぶんヤエは子供時代から結婚生活を経て、いまの留子との生活に至るまでずっと少女だったのであって、彼女の夢とは、ママゴトの延長上にある、裕福でなくても、しみじみと暖かい、まさに湯豆腐の夕食が象徴するような、家庭的で昭和的な幸福であった。

 こうした抒情的な作風は、『愛の矢車草』の続編として書かれた『愛の帆掛舟』の表題作にも濃厚だ。これは義理の父と娘の、(したがって)血の繋がらぬ親子の近親相姦の物語であるが、おそらく「愛の牡丹雪」と「愛の帆掛舟」を書いてしまったとき、橋本治の「メルヘン」はあまりにも早く頂点を迎えてしまった、とぼくには思える。古風といっていい抒情性は、「愛の帆掛舟」以降の作品においては稀薄になっていく。ストーリーは、ジェンダーの揺らぎ、夫婦関係そのものの揺らぎを描き始める。『愛の帆掛舟』におさめられたほかの3篇、「愛の百万弗」も「愛の真珠貝」も「愛のハンカチーフ」も、最後に、いわば「オチ」らしい「オチ」が来ない。読んでいて不安定な気持ちが残る。決着がつかない。決着のある人生、美しくまとまってしまうようなメルヘンを描くことはもう面白くもなんともない、そう橋本は言っているかのようだ。橋本は、メルヘンの先にあるものへと歩み出ている。

 ただし、「歩み出た」ことが小説にとって必ずしも幸せであったとはかぎらない。ぼくの好みで言えば、「愛の牡丹雪」「愛の帆掛舟」がこの2冊の8編のうちの傑作だと信じるからだ。じっさい、「愛の牡丹雪」については、講談社インターナショナルから出ているMonkey Brain Sushiという日本文学の短篇のアンソロジーに収められているという。アンソロジーの編者は、村上春樹の英訳者としても知られるアルフレッド・バーンバウム。よくぞこの昭和末期の恋愛小説の傑作を選んでくれたものだと思う。

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